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[ネタ蔵のネタ]最新記事
「団鬼七」・・・ってw 2008/03/30 23:36
投稿者:netazo
コメント数:0コメント「RG悶絶! 宮川大輔がドS全開攻撃で亀甲縛り!!=吉本芸人プロレス」
なんという!w
吉本興業のお笑い芸人たちがリングに上がり、プロレスとお笑いの融合を表現する吉本芸人プロレス「GOKKO」が30日、東京・新宿FACEで開催された。
とのことです。
「団鬼七」・・・大輔やるなぁ。...
(続きを読む) -
厳選グッズ
吉本興業
ブログからのネタの種
- 横山やっさんの娘さんが婚約
- 吉本興業で西川きよしと漫才コンビを組んでいた 横山やすしさんはモーターボートのネタを何かで 見たことがあります。その横山やすしさんの次女が漫才をしていたとは しりませんでした。木村ひかりさんですがお坊さんと婚約されたのですね。木村ひかりさんの
2009/07/04 13:06:57 [美里のニュース雑感] - しずるを食う
- 吉本興業とパン会社の策略にのせられてたまるか…!って思ってたのに買っちゃった。シールつきだったらもっと危なかったな、毎日買いそうだ しずる好きだよちくしょう!特に池田が好きだよ!オッサンぽくて!これ池田の絵が妙に似てる。目が似てる。村上は
2009/07/04 12:32:08 [中腰] - [吉本興業]東京ドームで東方神起verの
- 8月31日 吉本興業「やりすぎフェスタ2009」 <座長>NON STYLE、しずる、フルーツポンチ、はんにゃ、オリエンタルラジオ ※矢印がわたし この夏一番アツイ芸人が芝居で今回は「ごはんリレー」の進行役でマジシャンの吉本興業の小泉エリちゃんの喜怒哀楽をピックアップしました。さすが吉本興業のアイドルと言
2009/07/04 12:19:04 [最高・最善の吉本興業!] - 明日は初レース
- って感じているところです。まあ とにかく 無事に完走して、レースの雰囲気を楽しんでくれたらと思います。昨日は アメフェス の会議 今年は会場となりで吉本興業の コヤブソニック が同日開催されるそうで 例年になく来場者数が増えそうなので、役員の皆さんも 準備に大忙しですが、車
2009/07/04 11:48:38 [BALANCEのブログ] - 次長課長の井上さん、夏は恋せず・・・
- ました。井上さんはモンスターハンターを4904時間もなされた猛者でして、今回も新作を楽しみにしていたそうです。井上さん曰く「吉本興業の若手と集まってやってます」というほどのモンハンフリークでして、8月1日に開設される携帯サイト「よしもとモンハン部
2009/07/04 11:39:32 [晩記者のブログ] - $10 の情報
- 私は大島麻衣→2位中西里菜→8位戸島花→10位A戸島花はFAINTされても無理中西と大島は余裕で入る $10 吉本興業(大阪本社)所属のお笑いコンビ。結成は1994年6月頃。ネタはバラエティに富んでおり、濃いキャラクターを生かしたギャグや
2009/07/04 11:14:04 [わくわく芸人情報] - 51の夜
- この女性・・・は誰でしょう?やっぱり師匠や!・・・・ 農業指導に必要なユニークさがだんだん身についてきたようで・・・営農成績もしっかり向上 農業業界の吉本興業を目指せと・・組合長命令!昔から水田に入れる堆肥は、水で薄めてしまうので生でも障害はなかった!転作が進む
2009/07/04 10:32:10 [農経塾活動日記] - 業界注目度No.1オモシロクナ〜ル
- をご存知ですか?バッファロー五郎・木村さんが「きょうはオモシロクナ〜ルを2錠、飲んできました」という ギャグなんですが、吉本興業さんがまさかの商品化!本日、Chu!SHOPにも入荷致しました!もちろんYahoo!店でも販売中です!これを飲めば面白く
2009/07/04 10:13:21 [店長・林の「僕に5分くださ] - Vおぉっ!!V
- 山崎製パンと吉本興業がついにコラボだと!!画像は今から頂こうとしているはんにゃバージョンです☆ ほかにも、NON STYLEとかサバンナとかしずるとかあるらしい・・・ お笑い好きのワタクシとしては全制覇したいところですなぁ〜〜〜 っちゅうワケで、いただきます!アディオス
2009/07/04 09:19:02 [V *。・* 棘 ノ 蝶 *・。] - 俳優祭TV中継《俳優》
- って下ら披露宴が行なわれた会場は最大3600人収容の大宴会場。ホテルには松本が所属する事務所の吉本興業、大崎洋社長だけでなく、 他の吉本芸人や、放送作家の高須光聖、俳優の赤井英和など 多数の芸能人が駆けつけたんだそうですよ。私たちが観に
2009/07/04 09:08:04 [見るなら俳優]
はてブ注目エントリーからのネタの種
- 島田紳助 "永遠の二番手"を時代のトップに押し上げた「笑いと泣きの黄金率」 - 日刊サイゾー
- 6月27日、夏の特別番組『FNSの日26時間テレビ』の記者会見がフジテレビ本社で開かれた。同番組は、7月25日19時から翌日まで約26時間にわたって生放送される。今年は島田紳助が初の総合司会を務めることになった。クイズ、ゲーム、三輪車耐久レースなどさまざまな企画が行われ、『クイズ!ヘキサゴンII』でおなじみの「ヘキサゴンファミリー」も総出演する。笑いの取れる司会者として華々しい活躍を続けている紳助...
1970/01/01 00:00:00 [] - 日本ってすごくね(;゚Д゚) 声優を雇うには?
- 6 スペースNo.な-74 04/11/11 18:56:12 ネット声優にタダで手伝ってもらえばいいじゃんん たかが同人ゲーだし 7 スペースNo.な-74[sage] 04/11/11 21:41:07 >6 ネット声優の存在をそのレスではじめて知った・。 まさかこんな便利なシステムがあったとは・・・盲点だった・・・。 10 スペースNo.な-74[sage] 04/11/13 19:28:1...
1970/01/01 00:00:00 [] - 東国原知事、どうしたの - 太田市長とれたて日記
- 東国原知事がマスコミで派手に取り上げられている。これを書いたのは先週のこと。多少時差ぼけがあるかも、でも読んでもらえればありがたい。笹川総務会長がコメントしていたように「あほらしい」に尽きる。どうして、あの知事にマスコミが群がるのだろうか。無視すればいいのに。テレビが追いかけるから舞い上がる、要はタレントの習性、それだけ。 「地方分権、地方分権」といっている。昔から首長ならだれでもが指摘してきた「...
1970/01/01 00:00:00 [] - 真説・花菱アチャコ伝- 死んだ目でダブルピース
- お笑い, 歴史 | こだわり人物伝 2009年6-7月 (NHK知る楽/水)作者: 桂三枝, 日本放送協会, 日本放送出版協会出版社/メーカー: 日本放送出版協会発売日: 2009/05メディア: ムック NHK教育テレビの「こだわり人物伝」で、漫才師の花菱アチャコが紹介されている。 貴重な写真や映像の資料が見られるので、それなりにありがたいけれど、いまひとつ踏み込みが足りないというか、上っ面しか...
1970/01/01 00:00:00 [] - 吉本興業を悩ませる"お家騒動"の歪みと中田カウス事件の裏に見える"警察の怠慢" - 日刊サイゾー
- 加害者側として疑われたり、被害者として会見したりと、 大忙しの中田カウス。襲撃事件は一連のお家騒動と 関係がある、と自ら臭わせている。 (写真/吉本興業HPより) いまや連結売上高500億円を誇る「吉本興業」。折からのお笑いブームで、その勢いはさらに増しているのだろうと思いきや、未曾有の不況には敵わず、09年3月期は減収減益となった。だが、そんな経営状況とは別に、吉本にとって頭の痛い問題がある。...
1970/01/01 00:00:00 [] - 中田カウスが弟子なおきを破門(スポーツ報知) - Yahoo!ニュース
- 1月に大阪・日本橋の路上で何者かに金属バットで襲われ、4月に自宅へ脅迫状を送られた漫才師の中田カウス(59)が、弟子のタレント・中田なおき(43)を破門していたことが17日、分かった。 なおきは5月14日に自身の公式サイトを閉鎖。吉本興業のHP内にあるタレントプロフィルからも削除されている。 関係者によると、なおきの破門は5月初旬。ブログ内のコメントがカウスの逆鱗(げきりん)に触れたという。吉本興...
1970/01/01 00:00:00 [] - 【報告します!】国交省「お笑い研修」に数十万円支出の“大ボケ” 度重なるムダ遣いに省内外から「あり得ね〜」 (1/3ページ) - MSN産経ニュース
- 【報告します!】国交省「お笑い研修」に数十万円支出の“大ボケ” 度重なるムダ遣いに省内外から「あり得ね〜」 (1/3ページ)2009.6.13 18:00国土交通省が「コミュニケーション能力を高める」目的で、「漫才ワークショップ」と題した若手研修を行い、講師料として数十万円を支出していたことが発覚した。「前にも卓球セットを道路特定財源で買っていた問題があったじゃないか。税金をなんだと思っているんだ...
1970/01/01 00:00:00 [] - 国交省「漫才研修」に批判続出 お笑い芸人が講師…税金の無駄遣い? - MSN産経ニュース
- 国土交通省が若手職員のコミュニケーション能力を高めようと、吉本興業の芸人を講師に招き「漫才研修」をしたところ、省内外から「税金の無駄遣い」「意味があるのか」と批判が相次いだ。道路特定財源でカラオケセットなどを購入したことが強く批判された経緯もあり、今年限りで取りやめになりそうだ。 国交省の人事担当者は「笑いは発表や会議での潤滑油となり、対人能力も向上すると考え企画した。受講した職員には好評だったの...
1970/01/01 00:00:00 [] - メディア融合という過去 デジタルの手触り 第十番 ビジネス-最新ニュース:IT-PLUS
- 融合は、もう終わった。ポスト融合が本番を迎える。ポイントは、放送より通信。放送・コンテンツ業界は汗をかいている。通信業界が汗をかく番だ。2009年3月31日、楽天は保有していたTBS(現TBSホールディングス)株式の全部について、TBSに対し買い取り請求すると発表した。やはり通信と放送は融合も連携もしないのか。いや、そうではない。世界は通信と放送の融合や連携といった次元を超えて、次に進んでいる。い...
1970/01/01 00:00:00 [] - 日 記 ◆ 石川さゆりと、200億を使う男
- テレビはもはや「斜陽の産業」である、 はおおかたの「有識者」の見解の一致するところでございます。 近年、テレビ局の収益は下降線を描き続け回復のきざしを見せません。 奢れるもの久しからず、いずれ「ドロ沼」となって「GM」となるは 時間の問題でございましょう。 「不況だから」とのいまどきの「不況」を言い訳にすることは許されないのです。 この不況下でも他の産業で、史上最高の収益を上げている企業が いくつ...
1970/01/01 00:00:00 [] - Business Media 誠:日常会話に「オチ」を求めるのは東北人?
- 落語家を演じたら似合うと思う有名人(出典:ラジオカフェ)落語家を演じたら似合う有名人は? ラジオカフェの調査によると、1位は「麻生太郎首相」(150票)、次いで「西田敏行」さんと「タモリ」さん(いずれも143票)という結果に。麻生首相がトップを獲得した理由として、「首相に親しみやすさを感じたのかもしれません!?」(ラジオカフェ)とも。ちなみに民主党の小沢一郎代表代行は5票、鳩山由紀夫代表は2票だっ...
1970/01/01 00:00:00 [] - 吉本芸人のギャグを披露しなきゃいけないジェンガ | エキサイトニュース
- (上)ギャグをしながら積み上げなければいけないジェンガ。照れるより、やりきってしまう方が恥ずかしくない。 (下)ブロックには吉本芸人51人の名前とギャグが刻印されている。 雨後のタケノコのように、日々現れては消えるお笑い芸人たち。今や10年続けても、まだ若手と言われる世界である。ハンパない競争率。 そんな芸人たちの強力な武器のひとつである“ギャグ”。一世を風靡した芸人が開発したギャグには、やはり秀...
1970/01/01 00:00:00 [] - AQUOSでネット動画も“テレビらしく” ヤフー、3000本無料で配信 - ITmedia News
- ニュースAQUOSでネット動画も“テレビらしく” ヤフー、3000本無料で配信ヤフーは、シャープのAQUOS向けに、HD動画を含む3000本の動画を無料配信する。テレビ番組のように、受動的に動画を楽しめるよう工夫した。2009年05月27日 07時00分 更新ヤフーは、シャープが6月10日発売する液晶テレビ「AQUOS DS6」シリーズ向けに、無料動画配信サービス「動画チャンネル」を始める。AQU...
1970/01/01 00:00:00 [] - 【2】大量のニュースを料理する職人技が光る - 日経ビジネス Associe(アソシエ)
- コグレマサトさんが運営するブログ「ネタフル」は、月間100万ページビューという、国内最大級のアクセス数を誇るブログです。でも、初めてこのブログにアクセスした人には、このブログのどこがそんなにすごいのか、多くの読者から支持を集めているのか、ぴんとこないかもしれません。今回はこの「ネタフル」の魅力に迫ってみたいと思います。職人的な技が光るニュースクリップネタフルを構成する要素の1つが、様々なニュースサ...
1970/01/01 00:00:00 [] - TBSが朝1回の放送で見捨てた東野&岡村「旅猿」を日テレが拾い第3弾で早くも特番!ゴールデン進出! - 嗚呼、テレ日トシネマ−雑記−
- 東野&岡村「旅猿」がゴールデン進出…日テレ系7・1(@スポーツ報知) お笑い芸人の東野幸治(41)と「ナインティナイン」の岡村隆史(38)の日テレ系特別番組「東野・岡村の旅猿 プライベートでごめんなさい…」(7月1日放送、後9時)がゴールデンタイムに進出することになった。 同番組は“ボス猿”東野が死ぬまでに一度は行きたい場所を独断で決め“弟猿”岡村とハンディーカメラを持ったディレクターのみが同行す...
1970/01/01 00:00:00 [] - 脅迫状筆跡鑑定 中田カウスさん会見(産経新聞) - Yahoo!ニュース
- 漫才師、中田カウスさん(59)宅に脅迫状が送りつけられた事件で、所属の吉本興業が独自の筆跡鑑定をしたことを受け、被害者のカウスさんが26日、大阪市中央区の同社本社で会見した。一問一答は以下の通り。 −−報道を見た感想は? 「忘れられようとしている本筋の1月9日の襲撃と、翌日の劇場(NGK)への脅迫のところへ戻れるなあということ。僕はこないだ記者会見で申し上げましたが、脅迫状に関して『本気で送って...
1970/01/01 00:00:00 [] - 脅迫状筆跡鑑定で中田カウスさんが会見 一問一答 (1/3ページ) - MSN産経ニュース
- 漫才師、中田カウスさん(59)宅に脅迫状が送りつけられた事件で、所属の吉本興業が独自の筆跡鑑定をしたことを受け、被害者のカウスさんが26日、大阪市中央区の同社本社で会見した。一問一答は以下の通り。 --報道を見た感想は? 「忘れられようとしている本筋の1月9日の襲撃と、翌日の劇場(NGK)への脅迫のところへ戻れるなあということ。僕はこないだ記者会見で申し上げましたが、脅迫状に関して『本気で送って...
1970/01/01 00:00:00 [] - ヤフー、シャープ「AQUOS」向けに無料の動画配信サービス -BB Watch
- Yahoo! JAPANを運営するヤフーは26日、シャープの液晶テレビ「AQUOS」向けのインターネットサービス「Yahoo! JAPAN for AQUOS」で、無料の「動画チャンネル」を提供すると発表した。当初は、6月10日に発売予定の「AQUOS DS6シリーズ」10機種で利用できる。■ HD画質も用意した「動画チャンネル」。3000本以上を用意「Yahoo! JAPAN for AQUOS...
1970/01/01 00:00:00 [] - 脅迫状と前田五郎の筆跡類似 カウス夫人が気付く 坂田利夫も「相方の字」と証言 - MSN産経ニュース
- きっかけは女のカンだった?! 吉本興業所属の漫才師、中田カウス(59)宅に届いた脅迫状の筆跡が、同じ吉本所属の漫才師、前田五郎(67)の筆跡と似ていた問題で、最初に筆跡の類似に気付いたのはカウス夫人だった。前田の年賀状の文字を記憶していて「ピンときた」といい、吉本興業はカウス側からのこうした指摘をもとに独自の筆跡鑑定を行った。 吉本の関係者によると、脅迫状は郵便で4月3日にカウスの自宅に届いた。そ...
1970/01/01 00:00:00 [] - アホの坂田衝撃…前田五郎引退も? 脅迫文の筆跡酷似 (1/3ページ) - MSN産経ニュース
- アホの坂田衝撃…前田五郎引退も? 脅迫文の筆跡酷似 (1/3ページ)2009.5.26 07:55若いカウスと立場逆転…不満? 4月に漫才師、中田カウス(59)の自宅に脅迫文が郵送された事件で、筆跡が酷似しているなどとして同僚の漫才コンビ「コメディNo.1」の前田五郎(67)が関与した疑いが25日、浮上した。26日発売の「週刊朝日」などが報じた。所属の吉本興業はこの日、世間を騒がせたとして前田の休...
1970/01/01 00:00:00 []
Wikipediaサマリーなネタの種
吉本興業(よしもとこうぎょう)は、大阪府大阪市中央区と東京都新宿区に本社(登記上本店は大阪、※も参照)を置く東証1部、大証1部上場の、かつて日本最大手の芸能事務所、プロモーター、テレビ番組製作会社だった会社で、現在は、吉本興業グループの持株会社。商号は吉本興業株式会社。英文名称はYoshimoto Kogyo Co., Ltd.。社長は吉野伊佐男。通称:「吉本」、「よしもと」
2007年10月1日から持株会社制へ移行し、同社の事業部門は、よしもとクリエイティブ・エージェンシー、よしもとデベロップメンツ、よしもとアドミニストレーションにそれぞれ分社化されたために、現在は吉本興業グループの持株会社となっている。
日本経済団体連合会と日本商品化権協会加盟。
日本最古の芸能プロダクション
明治45年(1912年)4月1日の創業以来、約95年の歴史を持ち、現存する日本の芸能プロダクションでは、最も古い(次に古い歴史を持っているのがマナセプロダクション)。
概要
古くは桂春団治、横山エンタツ・花菱アチャコ、柳家金語楼から、現在のダウンタウン、ナインティナイン、オリエンタルラジオに至るまで、東西の多くの人気芸人を輩出してきたお笑い界の名門。テレビ番組制作、劇場、芸人養成スクールを手がけ、お笑い芸人のマネジメントでは圧倒的強さを誇る。意外と知られていないが、東京の二大落語家団体の一つ、落語芸術協会の創設者でもある。
また戦前は、巨人軍を他社と共同で設立して草創期のプロ野球界を支え、戦後は日本プロレス協会を立ち上げて力道山をスターにし、近年はスポーツ選手のマネジメントを数多く手がけるなど、スポーツ界とのつながりも深い。元々は全国で寄席・劇場・映画館経営を手がける興行会社であり、戦前は松竹・東宝・吉本で三大興行資本と称された。現在は芸能プロダクションを中心とし、テレビ番組制作会社、CS放送やケーブル・テレビ向けのテレビ局、不動産事業などを傘下に抱える業界最大手の複合企業である。「お笑いの総合商社」「日本最大の芸能プロ」とも揶揄され、芸能界における絶対的な権威から今や「吉本なしでは、番組が作れない」とまで言われる。
創業者の姓を採り「吉本」と名乗っているが、現在はオーナー経営ではない。大株主には大成土地、大成建設(大手ゼネコン大成建設とは無関係)、三井住友銀行、朝日放送、毎日放送などが名を連ねている。銀行系列は特にないが、旧大和銀行系の大輪会に参加している。梅田の大地主として知られる吉本ビルディングとは、よく間違われるが資本・人材を始め一切無関係である。
[編集] 沿革
[編集] 創業期(明治末~)
創業は1912年(明治45年)4月1日。始まりは吉本吉兵衛(本名:吉次郎、通称:泰三)・せい夫婦が大阪市北区天神橋にあった「第二文芸館」を買収し、寄席経営を始めた事であった。翌1913年1月には大阪市南区笠屋町(現・大阪市中央区東心斎橋)に吉本興行部が設立される。1915年には傘下の端席のほとんどを「花と咲くか、月と陰るか、全てを賭けて」との思いから「花月」と改名し花月派(無名落語家や一門に属さない落語家、色物などの諸派)結成。吉兵衛・せい夫妻は、桂派、三友派の二大勢力の争いが三友派の勝利にほぼ確定していた、1921年に非主流の浪花落語反対派と提携して勢力を伸ばし、後に反対派を吸収。そして翌年、三友派の象徴ともいえる寄席「紅梅亭」を買収して三友派も吸収。上方演芸界全体を掌握する事になる。しかし、1924年に泰三が急性心筋梗塞で死去し、若き未亡人せいが経営を背負う事になるが、せいの二人の弟の林正之助が大阪で、林弘高が東京で活躍し、大過なく経営を続ける事が出来た。その後大正時代には大阪だけでも20あまりの寄席を経営し、京都、神戸、名古屋、横浜、東京等にも展開していた。
当初は専属芸人のラジオ(当時のJOBK・大阪放送局)出演を堅く禁じていたが(当時の林正之助総支配人が「ラジオでタダで芸を聞かせたら寄席に客が来なくなる」として禁止したそうである)、1930年12月7日に桂春団治がその禁を破ってJOBKに初出演。吉本は禁を破った春団治の寄席出演を堅く禁じたが、その後しばらくして春団治が寄席に復活した途端に客が押しかける様子を見て、専属芸人を放送番組に出演させる事が結果として自らの営業利益に繋がる事を知り、1934年5月4日にJOBKと吉本は和解を果たした。1930年(昭和5年)には漫才(当時の万歳)専門の寄席小屋「南陽館」を開館、当時としては破格の値段10銭という入場料で横山エンタツ・花菱アチャコ、秋田Aスケ・Bスケ、芦乃家雁玉・林田十郎らが出演し人気を博す。
[編集] 東京・横浜への進出(大正末~)
また大正末より、東京・横浜への進出を開始し、大正11(1922)年1月には神田の寄席「川竹亭」を買収して「神田花月」として開場、同年5月には、横浜伊勢佐木町の寄席「新富亭」を手に入れている(翌年「横浜花月」と改称)。昭和に入ると、浅草公園六区の興行街への進出に本腰を入れ、「昭和座」「公園劇場」「万成座」を次々と手に入れた。1935年11月には東京吉本の本拠地となる「浅草花月劇場」をオープンさせている。また1932年3月1日に吉本興行部を改組する形で吉本興業合名会社が発足すると、正式に東京支社を開き、林弘高が支社長に就任した。以後、大阪吉本を林正之助が、東京吉本を林弘高が率いる体制が確立する。同年には「漫才」の名付け親として知られ、後に同社の社長にもなった橋本鐵彦、1934年には漫才作者として名高い秋田實が入社した。
東京吉本は伝統的演芸路線を取る大阪吉本と異なり、徹底したモダン・ハイカラ路線を打ち出した。「浅草花月」オープン時には流行歌手の東海林太郎やタップダンサーのマーガレット・ユキを出演させ、映画を上映し、レビューの「吉本ショウ」を上演している。専属のバンドとダンサー・チームを抱える「吉本ショウ」は、やがて「浅草花月」の目玉となり、ここから後に 川田義雄、坊屋三郎、益田喜頓、芝利英による、ボーイズの元祖「あきれたぼういず」が誕生した。「あきれたぼういず」以外にも当時の東京吉本は、柳家金語楼、柳家三亀松を筆頭に、石田一松、永田キング、木下華声(元2代目江戸家猫八)、松井翠声、伴淳三郎ら多くの東京の人気芸人を専属に抱えていた。タップダンサーの中川三郎や姫宮接子、元祖外国人タレント・ミス・バージニア[1]、喜劇王「シミキン」こと清水金一、コメディアンの堺駿二(堺正章の父)、木戸新太郎(キドシン)、泉和助、杉兵助(コント赤信号の師匠)[2]も当時、東京吉本に所属していたことがある。
こうした東京吉本のモダン・ハイカラ路線の裏には、当時優秀なスタッフの奮闘があったことは特筆されよう。東京吉本を率いる林弘高は、欧米の視察経験もあって、当地のエンターテイメント事情に明るく、吉本を色物主体の演芸会社から、ジャズやタップ・ダンス主体のバラエティ・ショーを主軸とする興行会社へ近代化させようとした。ジャズ評論家の瀬川昌久によれば、当時東京吉本の文芸部にはサトウ・ハチローや阿木翁助など多士済々の作家陣が在籍していたが、中でも長年「吉本ショウ」の脚本を手がけていた岩本正夫は、早稲田大学文学部出身で、英語にも堪能であった。そして松井翠声がアメリカのミュージカル雑誌の切抜きを始終持ってきては、岩本がこれを翻案し、さらには新しい欧米映画を何度も見てネタを拾っては、脚本を書いたという。1940年(昭和15年)には、谷口又士をリーダーとして「吉本スイング・オーケストラ」が結成され、浅草花月の舞台に登場するが、これも当時アメリカのショー・ビジネスを見学した林弘高が、丁度結成されたばかりであるスパイク・ジョーンズのコミックバンドを見て感激し、その日本版を狙ったといわれる[3]。
[編集] 戦前の全盛期(昭和初め~)
またこの時期吉本興業は、スポーツや映画といった演芸以外の分野にも積極的に進出している。1934年には、正力松太郎の音頭の下、京成電鉄や東芝等と共同出資して、プロ野球の巨人軍(当時の名称は大日本東京野球倶楽部)を設立。林正之助を、巨人軍の役員に送り込んでいる。また1933年には、吉本の社内に映画部を設立。1935年には、映画会社東宝の前身の一つであるピー・シー・エル映画製作所(PCL)と、さらに翌年東宝映画配給と提携し、1936年には林正之助が東宝映画配給の取締役に就任している。こうして横山エンタツ・花菱アチャコ、柳家金語楼ら吉本所属の喜劇人の映画が、続々と東宝から封切られることになった。また、本業の演芸部門でも東宝との合弁企業・東宝演芸を東京に設立し、東京での演芸興行にも一層注力する事になった。その一方で当時三大興行資本と言われた松竹・東宝・吉本の内、東宝と吉本が急接近したことは、松竹を刺激し、松竹傘下の新興キネマによる、後述の吉本芸人の引き抜き騒動を引き起こすことにもなった。
この1935年(昭和10年)前後が、戦前の吉本興業の最も華やかな時期だったと言えよう。東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸の6大都市に47 館の直営劇場・寄席・映画館を所有し、所属の芸人数は約1300人に上った。プロ野球の球団経営(巨人軍)や映画製作を手がける一方、寄席の舞台や映画のスクリーンでは、横山エンタツ・花菱アチャコ・柳家金語楼・柳家三亀松・川田義雄の吉本の5大スターが人気を競った。ちなみに戦前の吉本で最も高給を取っていたのは、金語楼と言われている。
しかし1939年(昭和14年)には、吉本を揺るがす大事件が起きる。いわゆる「新興引き抜き騒動」である。松竹が傍系の映画会社新興キネマに演芸部を設立させ、吉本の人気芸人を引き抜きにかかったのである。その背景には、前述のように当時の三大興行資本の内、東宝と吉本が急接近したことに松竹が反発したことがあった。当時引き抜きに応じて吉本から新興キネマに移籍した芸人は、大阪吉本では、漫才コンビのミスワカナ・玉松一郎、松葉家奴・喜久奴、西川ヒノデ・サクラ等、東京吉本では、川田義雄を除く「あきれたぼういず」、東京漫才の若手・香島ラッキー・御園セブン等であった。川田が吉本に残留したのは、当時「吉本ショウ」の踊り子・桜文子と結婚したばかりであり、その媒酌人を林弘高・東京支社長に引き受けてもらったために、吉本に恩義を感じていたからと言われる。結局川田は、新たに音楽ショウ「川田義雄とミルク・ブラザース」を結成し、「地球の上に朝が来る」のテーマ・ソングで人気の巻き返しを図った。またミスワカナの抜けた穴を埋めるために、1942年(昭和17年)、旅回り一座から後のミヤコ蝶々がスカウトされ、吉本入りしている。
[編集] 戦時下の苦闘(昭和12年~)
1937年(昭和12年)の日中戦争の開始、1941年(昭和16年)の太平洋戦争の開始と戦時下の締め付けの強化は、吉本の展開にも暗い影を投げかけていった。当局の台本への検閲が厳しくなり、レビューへの風当たりもきつくなっていった。1941年(昭和16年)には、「吉本ショウ」は「吉本楽劇隊」と改称させられている。
吉本は一方で、当時の国策に協力することで、戦時下を乗り切ろうとした。1938年(昭和13年)からは、大阪朝日新聞と協力して「わらわし隊」という戦地慰問団を結成し、エンタツ、アチャコ、金語楼、三亀松ら自社の人気芸人を続々と中国大陸に派遣した。また1941年(昭和16年)、情報局や大政翼賛会の主導により「移動演劇連盟」が設立されると、これに呼応して「吉本移動演劇隊」を結成し、全国を巡演した。さらには映画製作においても、金語楼主演の「プロペラ親爺」(1939年)のように国策に沿った喜劇映画を数多く製作した。そして1943年(昭和18年)、当時所有していた大阪の通天閣が出火で焼けると、復旧工事を止めて通天閣を解体し、政府に軍需資材として献納した。
他方で、戦争が泥沼化し、本土への空襲も始まると、吉本は物的・人的にも大きな打撃を被る事になった。1945年3月の東京大空襲では、神田花月と江東花月が焼失。神奈川県下に所有していた劇場も度重なる空襲ですべて失い、関東地区における吉本傘下の劇場で終戦時に残ったのは、浅草花月劇場、浅草大都劇場、銀座全線座の3館のみであった。地元大阪でも、相次ぐ空襲で、本社をはじめ、所有していた寄席や劇場、映画館のほとんどが瓦礫と化した。また出征していった所属芸人の戦死にも見舞われた。こうした混乱もあり、吉本興業は終戦直前に花菱アチャコを除く全所属芸人との専属契約を解消するに至った(同時に会社に借金がある芸人についてはその借金を棒引きしている)。ただし専属契約の解消時期については「戦後の1946~1947年頃」とする資料もあり[4]、終戦直後の混乱の中で情報が錯綜した中での契約解消であったことがうかがえる。
[編集] 戦災からの復興(昭和20年~)
終戦後、吉本興業は演芸による復興をあきらめ、映画の製作と上映に活路を見出すこととなった。そして1948年12月に封切公開された大映映画「大島情話」(主演・坂東好太郎 監督・木村恵吾)を皮切りに、次々と映画を製作していった。また所有していた寄席・劇場の多くも映画館に切り替えた。さらに1946年10月には京都で進駐軍専用のキャバレー「グランド京都」をオープン。こうしたいち早く時流の流れを読んだ吉本経営陣の読みは当たり、吉本興業の経営は軌道に乗っていった。1948年1月7日に現在の吉本興業株式会社が発足している。1949年に大阪証券取引所、1961年には東京証券取引所に上場した。その一方で、1950年には創業者の1人であり、芸人に「おせいさん」と呼ばれて慕われた吉本せいが死去した。
一方、林弘高率いる東京吉本は、戦後の1946年10月、「吉本株式会社」として正式に大阪の吉本興業から分離独立した。銀座に本社とスタジオを構え、東京・横浜の劇場・映画館経営と共に、デビュー当時の江利チエミのマネジメントや力道山のプロレス興行を手がけていった。チエミの場合は、父親が戦前の「吉本ショウ」のピアニスト・久保益雄、母親が喜劇女優・谷崎歳子であり、両親共に東京吉本の所属だったことから、チエミも東京吉本の所属になったものと思われる。さらに1946年11月には、映画会社東映の前身の一つ、「大泉映画」を設立。東京練馬区大泉に映画スタジオを創設して、数々の映画を製作した。また戦後の「浅草花月」は、浅草公園六区の他の劇場と同様、ストリップや大江美智子の女剣劇を上演する一方、引き続きトニー谷、由利徹、海野かつを、ショパン猪狩(後の東京コミックショウ)ら、多くの東京の芸人を出演させ、人気を博した。しかし浅草公園六区の興行街のその後の急速な斜陽化は、「浅草花月」を始め多くの劇場・映画館を当地に持っていた東京吉本をも襲うことになる。東京吉本こと「吉本株式会社」は業績が悪化し、最終的には会社更生法の適用を受けるに至った。
[編集] 演芸王国の復活(昭和34年~)
他方、映画館経営を主軸としてきた大阪の吉本興業は、昭和30年代に入ると、テレビの隆盛と映画の衰退に危機感を覚え、再び演芸部門を復活することにした。落語や漫才の主力芸人は戦後いち早く演芸を再開した松竹系に取られていたため、コメディを中心にすることにし、それをテレビで中継させて客を呼ぶ作戦に出た。そうして1959年(昭和34年)3月1日に、手持ちの映画館を演芸場に改装して、うめだ花月として開場、演芸再開に乗り出した。演目はアチャコ主演の吉本ヴァラエティ「迷月赤城山」であり、うめだ花月開場と同時にテレビ放送を開始した毎日放送に舞台中継させた。その後吉本興業は、直営の映画館を演芸場に改装する形で、1962年(昭和37年)には京都花月を、翌1963年にはなんば花月を開場。吉本ヴァラエティは、1962年には吉本新喜劇と名前を変え、白木みのる、平参平、ルーキー新一、花紀京、岡八郎、原哲男、財津一郎らスターを続々と生み出していった。
昭和40年代には、落語や漫才でも吉本所属の若手芸人が育ち始め、メディアと連動する形で若者の人気を得ていった。まず若手落語家の笑福亭仁鶴がラジオの深夜番組で人気を得、続く毎日放送のテレビ番組「ヤングおー!おー!」で、同じ吉本所属の若手落語家・桂三枝が人気者となった。さらにこの頃より、横山やすし・西川きよし、コメディNo.1ら吉本所属の若手漫才師も、若者の圧倒的支持を受けるようになっていった。
このように吉本興業は落語・漫才・コメディの分野で若い人気芸人を次々と輩出していった一方で、ライバルの松竹系の松竹芸能は老齢の重鎮クラスの芸人が多く、世代交代が進まなかったこともあり、昭和50年代に入ると、上方演芸界の主導権は再び松竹系から吉本興業へ移っていった。特に1980年(昭和55年)の漫才ブームで、ザ・ぼんち、島田紳助・松本竜介、明石家さんまら吉本興業から全国区の若手人気芸人が続々と出た一方、松竹芸能は春やすこ・けいこを除くと全般的にブームに乗り遅れたことで、それは決定的になったと言える。以後吉本興業が上方の演芸界を支配する構図が、今日に至るまで続いている。
[編集] 東京吉本の再興と地方への進出(昭和55年~)
そして吉本興業は1980年、東京連絡事務所(後に東京支社、さらに東京本社に格上げ)を設置、東京吉本の再興にも乗り出した。80年代は純粋な東京吉本出身の芸人は野沢直子ぐらいであったが、90年代以降、吉本が「銀座7丁目劇場」「渋谷公園通り劇場」「ルミネtheよしもと」「神保町花月」と次々と東京に劇場をオープンさせたことに加え、吉本総合芸能学院(NSC)の東京校が開校したこともあり、ロンドンブーツ1号2号、ペナルティ、品川庄司、ロバート、インパルス、森三中、オリエンタルラジオ等、東京吉本出身の芸人が続々と育ち、近年テレビを席巻しつつある。現在、東京吉本は、神田神保町に本社ビルを構え、所属の芸人数から見ても、社員数から見ても、売上高から見ても、大阪吉本と肩を並べる存在である。
さらに吉本興業は80年代末以降、名古屋、福岡、札幌、広島に支社または事務所を続々と開いていき、地方のテレビ局への食い込みを図ると共に、ローカルタレントの育成にも乗り出した。そうした地方の吉本所属のローカルタレントの中から、札幌吉本出身のタカアンドトシや福岡吉本出身の博多華丸・大吉、バッドボーイズのように、近年、全国区で活躍する者も出てきている。
[編集] 現在
現在の吉本興業は、直営劇場を東京に2つ、大阪に3つ、さらにテレビ番組収録用のホールを東京・大阪に各1つ持ち、所属タレントは約800人という陣容である(2008年に大阪にさらに劇場を1つ新設する予定)。全国に直営劇場・寄席を47館持ち、所属芸人は約1300人という戦前の全盛期(昭和 10年頃)には未だ及ばないものの、依然として総合娯楽産業の雄であることは言を待たない。
また近年は芸人だけでなく、一般の社員の採用、育成に力を入れている。さらに、興行以外にも多くの事業を展開してることから「総合アミューズメント産業の中心」という見方があり、就職先としても人気が出ている。ただ、「芸能人に近づける」というイメージも未だに強く、新入社員説明会は冷やかしが増えたためか、近年有料化にした経験もある。
社員教育は徹底しており、マネージャーはあくまで所属芸人のマネジメントをする人間であって、付き人ではないという考えから、荷物持ち等の雑用はしないようにと厳命している。又、弟子を持っている芸人に対しても師匠と呼ぶことも禁じている。
2007年10月1日には持株会社に移行、マネジメント・制作・営業統括部門を「株式会社よしもとクリエイティブ・エージェンシー」、不動産賃貸・その他の事業統括部門を「株式会社よしもとデベロップメンツ」、経理・人事などの統括管理部門を「株式会社よしもとアドミニストレーション」にそれぞれ分社、ファンダンゴを株式交換で完全子会社化し、「株式会社よしもとファンダンゴ」としている。
[編集] 芸能界での影響力
現在、吉本興業は同業他社の大手芸能プロダクションと同様に「最大のタブー」と言われる程、芸能界において巨大な圧力となっている。
その背景には明石家さんま・島田紳助・ダウンタウン・ナインティナインなど数字が取れる人気タレントがズラリ揃っている事、創業時からの経営手法、会長だった林正之助が絶大な経営権を持っていた事、そのイズムを受け継いでいる事が起因している為である。
また、所属している芸人・タレントの離反に対しては、テレビ局等に容赦なく干す様に要請し、それに耐え切れず、芸能界を去る者もいれば、中には下積み同然の扱いを受けた後に土下座して、ようやく復帰を許されたものもいると言われる(その代表格に大平サブローがいる)。但し、吉野綾、木村進、今日規汰代らの様に病気及び結婚・円満に退社・移籍したタレント・芸人や人生幸朗らの様に病気で亡くなったタレント・芸人に対しては別扱いである。
[編集] 評価
上方演芸界への功罪
戦前には安来節を流行らせ、漫才を今日の形にした。又、前述の放送番組の件や、京都の松竹と競合すると見るや新興資本の東宝と組んで漫才=演芸と映画を融合させる等、今日のマスメディアとショービジネスの関連性をいち早く見抜き、メディアミックスの手法を取り入れて大いに活用し躍進した。一時は大阪・新世界の通天閣も購入し、隆盛を誇っていた。反面、演芸場のチェーン化を図り、桂春団治ら落語家を専属契約として自社の演芸場の番組のみ出演させた事で、上方の寄席文化を壊滅に追い込んだ。会社全体の気風として、流行の先端にあって人気の高い芸人・分野に力点を置き、新時代の潮流を切りひらいてゆくところに特色があるが、それが他方では、文化的に価値の高いものであっても、人気がなければ切捨ててゆく非情さにつながっており、演芸文化に対する害も大きい。
江戸笑芸の完全否定と芸人使い捨て
「吉本=大阪・お笑い」というイメージも強いが、戦前は必ずしもそうではなく、前述の通り東京・横浜にも多くの寄席・劇場・映画館を所有し、柳家金語楼、柳家三亀松、川田義雄ら多くの東京の芸人を専属に抱えていた。戦後も、デビュー当時の江利チエミのマネジメントを手がけている(彼女の両親も東京吉本所属の芸人だった)。さらに戦前は球団経営(プロ野球の巨人軍)を手がけ、戦後も映画会社東映の前身の一つ、大泉映画を設立するなど、興行資本としての性格も強い(ちなみに戦前は松竹・東宝・吉本で三大興行資本と呼ばれていた)。
人気がなければ切り捨てるという点では立川談志が「あいつらは戦前から売れねぇと使けぇ捨てるんだョ。ったく冷てぇったらありゃしねぇよ。」と著作において批判している。また、永六輔は江戸笑芸を徹底否定する戦略を打ち出す姿勢を問題視しており、毎日放送が大正テレビ寄席を打ち切ってサモン日曜お笑い劇場に差し替えた事に激怒。絶縁以降は自身出演のラジオ番組・自身が請け負った連載で徹底的に揶揄するほど非難。この事例でわかるように江戸笑芸の重鎮・啓蒙論者からの批判は絶えない。
暴力団との黒い関係
醜聞も少なくない。戦前の初代社長吉本せいの頃より山口組と組んで嫌がる売れっ子芸人を契約させたり、地上げや興行を行ってきた。新興演芸発足に伴う引き抜き事件の際には、かなりの極道が動いたという。山口登(山口組二代目組長)は、初代社長・吉本せいの依頼を受け、吉本興業の東京進出に尽力した。1940年、山口登は人気浪曲師・広沢虎造(映画興行権を吉本興業が所有)の興行トラブルから、下関の籠寅組・保良浅之助と対立。山口登は、東京浅草で籠寅組幹部と話し合いを持ったが、籠寅組に襲われて重傷を負った。余談ながら、山口登は、この籠寅組に東京浅草で襲われた時に受けた傷がもとで、2年後死亡した。
戦後も吉本興業は力道山などのプロレス興行を手掛け、田岡一雄(山口組三代目組長)や町井久之(東声会会長)と親交があった。田岡一雄は美空ひばり等の興行を仕切っていた事で知られる神戸芸能社を率いており、同じ関西の吉本興業との関係は当然すぎて、当時は誰も問題視しなかったのであろう。1968年1月11日には、吉本興業社長・林正之助が田岡と組んでレコード会社を乗っ取った容疑で兵庫県警に逮捕されている。当時の日本経済新聞によると「わしが田岡組長に電話したら山口組組員300名が駆けつけて血の雨が降るぞ!」と脅迫したという。毎日新聞によると「食品会社、レコード会社から千二百万円相当の株を脅し取った」と書かれている。週刊文春によると「林正之助は山口組の準構成員であった」(企業舎弟)と書かれており、林正之助は田岡の葬儀にも出席し棺を担いでいる。
所属タレントの不祥事
他の芸能プロダクションに比べ、所属タレントの不祥事も多い。特に1970年代には主として賭博がらみの不祥事が多く発生した。特に横山やすしによる度重なる不祥事は周知の事実である。また、2000年代では山本圭一の未成年淫行事件や島田紳助の局内での暴行事件が発生している。ただ、これらの不祥事に対する事務所の対応は大変素早く、不祥事を起こしたタレントには事件の重大性やタレント自身の業界における立場を考慮した上で謹慎処分や解雇処分が下される。
[編集] 創業者一族と主導権争いの歴史
吉本興業の創業者は吉本吉兵衛(通称・泰三)とその妻・せいである。1912年(明治45年)に夫婦で大阪の寄席経営に乗り出してから、吉本の歴史は始まった。1913年(大正2年)には、吉本興行部を設立している。吉本せいをモデルにした山崎豊子の小説「花のれん」では、この時期に吉本の経営の采配を揮っていたのはせいであり、夫の吉兵衛は道楽者で経営には全く興味がなかったかのように書かれている。しかし矢野誠一による評伝「女興行師 吉本せい」によれば、吉本興行部主人として実質的に経営を指揮していたのは吉兵衛であり、せいはむしろ内助の功に徹していたという。ともかく、吉兵衛は1924年(大正13年)、37歳の若さで死去し、未亡人となったせいが、経営の表舞台に立たされることになった。
しかし吉兵衛存命中の1917年(大正6年)、せいは実弟の林正之助を吉本興行部総監督として迎え入れている。また吉兵衛死後の1928年(昭和3年)には、正之助の実弟となる林弘高も招いて、既に吉本が進出していた東京・横浜地区の仕事を一任した。ここに創業家の吉本家に加え、せいの実家である林家が吉本の経営陣に登場してくることになる。
1932年(昭和7年)に吉本興行部は吉本興業合名会社になり、せいが主宰者、正之助が総支配人、弘高が東京支社長に就任、ここに大阪吉本を林正之助が、東京吉本を林弘高が率いる図式が出来上がる。しかし戦前の東京吉本に詳しい演芸評論家の小島貞二によれば、当時の東京吉本は、形式的には吉本興業の東京支社を名乗っていたものの、実体は「吉本株式会社」として独立し、弘高が社長を務めていた。しかもこの「独立劇」自体、弘高と兄の正之助間のトラブルによるものであったという[5]。1938年(昭和13年)には吉本興業合名会社は吉本興業株式会社に改組、せいが社長に就任するが、実際の経営は専務となった正之助が担うこととなった。
戦後の1946年(昭和21年)、弘高率いる東京吉本は、「吉本株式会社」として、正式に大阪の吉本興業から分離独立する。この独立劇も、弘高と正之助間のトラブルの産物であったかどうかは定かではない。以後も両者は協力して力道山のプロレス興行を手がけているところを見ると、この独立劇の背後に骨肉の争いがあったとも思えない。社史「吉本八十年の歩み」には、終戦後の混乱の中で吉本興業本体の経営を身軽にするために、東京吉本を切り離したという趣旨で書かれている。
さて戦後の1948年(昭和23年)、吉本せいは吉本興業の社長から会長に退き、林正之助が社長に就任した。一方せいは、正之助に任せている吉本興業の経営を、将来は溺愛する一人息子の吉本穎右に継がせる予定であった。しかし穎右は、せいの反対を押し切って、歌手の笠置シヅ子と結ばれ、1女を設けた。挙句に1947年(昭和22年)に24歳の若さで死去してしまう。後を追うように、せいも1950年(昭和25年)に60歳で世を去った。両者の死は、吉本の経営にとって、1つの転換点となった。もし穎右の死がなければ、彼が吉本興業の社長を継いでいただろうし、彼の妻となった笠置シヅ子には、歌手に加えて吉本興業社長夫人の肩書きが加わっていたはずである。そして現在に至るまで、吉本の実質的な経営権は吉本家の下にあったかもしれない。しかし穎右とせいが相次いで世を去ったことで、吉本興業の実権は名実共に創業家の吉本家から林正之助社長の林家に移ることになった。
1963年(昭和38年)、正之助は体調不良を理由に、社長を辞任した。後を継いだのは、東京吉本(「吉本株式会社」)を率いる弟・弘高である。彼が大阪に乗り込み、吉本興業の社長に就任した。しかし同時に彼は東京吉本の自分の息のかかった幹部社員を連れてきた。以後、吉本興業内では、正之助・大阪吉本系と弘高・東京吉本系の社員間で、主導権争いが続いた。弘高は新たに巨大ボウリング場やインドア・ゴルフ場を開いて、経営の多角化を進め、吉本の業績を急上昇させるなど、手腕を発揮する。一方、弘高ら東京吉本系の社員は、当時再開したばかりの演芸部門には冷淡であり、花月劇場を閉鎖しようとさえしたという。こうした路線に反発して、後に吉本の社長になる中邨秀雄は、一旦吉本を退社している。
一方、弘高は後に病気で倒れ、1970年(昭和45年)再び正之助が社長に復帰した。正之助復帰に伴い、彼に近い中邨が吉本に復帰する一方で、弘高・東京吉本系の幹部社員の多くは失脚し、当時幹部の顔ぶれががらりと変わったほどであった。
その後、1973年(昭和48年)に正之助は社長から会長に退き、後任に橋本鐵彦が就任した。1977年(昭和52年)には、八田竹男が橋本を継いだ。両者共、創業者一族以外からの登用である。しかし1986年(昭和61年)に再び正之助が社長に返り咲くが、1991年(平成3年)には正之助の死に伴い中邨秀雄が社長に就任、しかし1999年(平成11年)には正之助の娘婿の林裕章が社長を継ぐなど、この時期社長のイスは創業者一族と、外部の間で揺れ動く。最終的に2005年(平成17年)の林裕章の突然の死を受けて、吉野伊佐男が社長を継ぎ、今日に至っている。
結局吉本は、当初は経営陣の中枢を創業者一族で固める同族企業として出発したが、その中で、吉本せいと林正之助間で姉弟間の、さらには正之助と弘高間で兄弟間の主導権争いを繰り広げてきた。前者には「吉本家」対「林家」、後者には「大阪」対「東京」という対立軸も加わり、様相を一層複雑なものにした。いずれの主導権争いでも最終的に勝利したのは正之助であり、その過程で吉本興業の経営の実権は吉本家から林家、さらには同家の正之助直系に移っていった。一方近年は、独自路線を強める吉野社長以下現経営陣に対して、それを創業者一族離れと見る大株主の林家が批判を強めている。特に 2007年(平成19年)には週刊現代が「創業者一族が○暴(まるぼう)を使って副社長を恐喝!」というスクープ記事を載せたり、週刊新潮が中田カウスが山口組を背景に創業者一族を脅しているとの告発記事を掲載と、週刊誌を使って経営権争いを有利に進めるためのリーク合戦をするに至り、注目を集めた。こうした対立は、老舗の同族企業にはよく見られるパターンとはいえ、その行方が注目されるところである。(なお、近年の記事において林家を「創業家」とする記述も散見されるが、前述のように吉本興業の創業家は吉本家であり、林家は厳密には「創業者一族」である。系列のイベント会社「正和吉本」を経営する吉本公一が創業家。)
[編集] タレントの待遇
所属芸人の多くは、契約書も交わしていないし口約束すらしていない(社から見れば“居させてくれと言ってるから置いてやっている”形式)。ダウンタウン松本などは「契約金をもらった事もないし、このままどっかに移籍しても法的には一切問題ない」という。また、タレントの送迎などをせず、どれだけ売れっ子でも自分で車や電車で移動する。
タレントの給料は歩合制のため、若手であまり仕事がない芸人の場合、「銀行のATM手数料や交通費がギャラより高い」といった現象が起こる。さんまや紳助は童謡・こいのぼりの替え歌で「ギャラより高い交通費」と度々歌っている。又、給料がいくらであっても必ず1割~8割を吉本側が天引きし、また源泉徴収することでも知られている。ただ、漫才などの賞レースや特番の賞金などについては一部プロダクションの中には、その賞金を数割程度会社側が取り込むというところも多いようであるが、吉本興業ではギャラ以外でタレントが直接稼いできたお金は全額そのタレントのもとに入るという。その為、この事情から「ピンハネ疑惑」が芸能マスコミ関係者を中心に噂されている。
[編集] 事業展開
吉本興業は芸能プロダクションとしては珍しく、本業のプロモーター業やテレビ番組製作業以外にも、会社の方針として積極的に様々な分野へ新規参入をして事業展開に乗り出すが、十分な採算が取れなければ不採算部門からの撤退も早い。
1959年の演芸復活の際、当時の八田常務は映画産業の斜陽化とテレビ時代を予見。単なる演芸の復活ではなく、テレビ時代に対応した事業の確立を目指した。演芸の番組の合間にテレビ番組の収録を挿入し、またテレビの舞台中継を通じて番組製作のノウハウを入手。更に売から肖像権全てを自社グループ内で処理をしてしまう一連のコンテンツ流通の仕組みを持つ。
又、2005年には、吉本興業やフェイス、ファンダンゴ、インテルなどが出資する戦略グループ会社として、株式会社ベルロックメディアを米国に設立。同時に日本法人も立ち上げ、日米でメディアの多様化にあわせ吉本グループのコンテンツを活かした新たなビジネスモデルを構築しつつある。