ビートたけし

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ブログからのネタの種

ビートたけし/北野武を紹介する長期間の展覧
先日に引き続き、Takeshi Kitano@パリについてメモ。パリのFondation Cartier(カルティエ現代美術財団-261, boulevard Raspail 75014 Paris)のビートたけし/北野武「Go
2010/03/21 20:14:14 [Lubieメモ]
派遣村 酒
: text/plain; charset=ISO-2022-JP Content-Transfer-Encoding: 7bit 今回は派遣村 酒に関連するエントリーを紹介しますねーw ■ビートたけしの小沢一郎評「顔が全てを語っている」 .. 派遣村で、東京都が入所者に就労活動費として一人2万円渡し
2010/03/21 19:49:37 [情報商材レビュー&感想]
「バイク」20100308-2
の焼ける匂いって、どうしてあんなに魅力的なんだろう。深夜のテレビでやってた 男と女の、 男女間での嘘の話し… ビートたけしとか、言いたい放題で面白い番組だった♪ が、 オレは、超つまんね?出来上がってる男女間で、お互いを気づかう
2010/03/21 19:46:15 [バイクの部屋]
「失恋回復手帳」の効果とは?
rss/l/topics/topics/*http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/weather/ 「終わったな......」ビートたけしも呆れる"不動産屋"TBSの瀕死ぶり http://www.excite.co.jp/News/entertainment/20100308/Cyzo_201003_post_
2010/03/21 19:46:04 [派遣じゃないよ正社だよ]
パワーくれくれっ
てみたい 5時間歩いても、その自然のすごさを体感してみたいな 深呼吸しまくりたい!!他に行きたいのは伊勢神宮。ここも有名だよね 今年に入ってから、番組でビートたけしが訪ねているのを見て。ますます行ってみたくなっちゃった。でも
2010/03/21 19:45:33 [ARASHIのキャプテン 〜a Day in Our Life〜]
0319@宇都宮HEAVEN'S ROCK
) 栃木も色々ありますよ フリも覚えたし とにかく楽しかった 最後は出演者全員でレモン牛乳を飲んでだよ そして一言ずつ言ってはける予定が誰もはけないという(笑) ジュリィーの勇っさんとセクアンの白塗りのゆうだいさん?がビートたけしサンのマネしてた(笑)ヒータンゆうだいさん好き
2010/03/21 19:04:18 [ヒータンのブログ]
【フィギュア】浅田SPで3回転半決め最高演技
ザ襲来』を適用し3分で腸力アップに繋がる歯磨き術も大公開!【司会】 ビートたけし 【ゲスト】高橋英樹、杉本彩、中島知子、IKKO、ブラックマヨネーズ(吉田敬・小杉竜一) 「たけしの健康エンターテインメント!みんなの家庭の医学」 便秘・下痢改善スペシャル お通じサーカスはまさにサーカスをやり
2010/03/21 18:36:14 [真・エンターテインメントしんぶん 最新のニュース速報(・]
ワンマン無事?!終了☆
夜10:00から放送されている、テレビ東京さんの「ニッポンのミカタ」の、4〜6月のエンディングテーマとして流れる事になりました ビートたけしさん、国分太一さんが出演されている番組です よく拝見している番組だけに、余計に嬉しい PANG です 皆、ぜひともチェックし
2010/03/21 17:03:20 [PANGオフィシャルブログ「Irie feeling」 Powered by Ameba]
トーティラ フラット…?(映画DVD)
一歩先でていたソ連に対抗すべく、マーキュリー計画を推進。たけしさんの最近のDVDなどですが、物によっては売り切れになっているものがあるので、人気の高さが感じられます。TAKESHIS(DVD) ビートたけしと北野の2人が出演、現実なのかそれとも幻覚
2010/03/21 16:22:13 [映画DVD メルティング・ポットで綴る海外生活。]
03月 9日(Tue)のつぶやきログ(
の健康エンターテインメント!みんなの家庭の医学 将来 寝たきりにならないために!骨と筋肉の衰えを防ぐプロジェクト 2010年3月9日 司会:ビートたけし 出演:東国治英夫 石田純一 南海キャンディーズ 南明奈 柴田理恵 ガダルカナル・タカ[ in reply to Hagemashijin ] 23:35 まずはyoutubeでお試しあれ http:
2010/03/21 16:22:05 [Youtube ニュース.net]

はてブ注目エントリーからのネタの種

痛いニュース(ノ∀`):「今のテレビ、昔よりつまらない」は勘違い?…原因は「面白い番組しか記憶に残らないせい」などの意見も
「今のテレビ、昔よりつまらない」は勘違い?…原因は「面白い番組しか記憶に残らないせい」などの意見も1 名前: 蛸壺(福島県):2010/03/18(木) 23:42:12.34 ID:FD1hSEjH ?PLT 最近のテレビ番組は、つまらない? 「今、テレビ・新聞といったマスメディアが、かつてない事態に直面している」とNHKは言う。3月22日の放送記念日に放送する特集番組「激震マスメディア」は、若...
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暇人\(^o^)/速報 : 「今のテレビは昔よりつまらない」という勘違い 原因は面白い番組しか覚えていないせい - livedoor Blog(ブログ)
「今のテレビは昔よりつまらない」という勘違い 原因は面白い番組しか覚えていないせい「今のテレビは昔よりつまらない」という勘違い 原因は面白い番組しか覚えていないせい 1 名前: 蛸壺(福島県)[] 投稿日:2010/03/18(木) 23:42:12.34 ID:FD1hSEjH BE:455221139-PLT(12000) ポイント特典 最近のテレビ番組は、つまらない? 「今、テレビ・新聞とい...
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パリで評価の高い北野武と、ビートたけし 名監督の名を傷つける危険を厭わない人間力が人気呼ぶ JBpress(日本ビジネスプレス)
「サイデスカー」というのをご存じだろうか?これにピンとくる方は、恐らく私と同じで、かつて大人気を博したテレビ番組「おれたちひょうきん族」の時間を毎週毎週心待ちにしていたこどもだったに違いない。「サイデスカー」というのは、ビートたけしさん扮する「タケチャンマン」の愛車の名前。このコーナーのイントロの部分で、テーマソングと一緒にいつもちらっと登場していた。ビートたけしのギャグを外国人は理解できるのか私...
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SAS | マキタスポーツ コラム
もはや評価の埒外にあり、「日本人の前提」にまで成り得た存在のサザンオールスターズ。 我々がサザン的なるものを当たり前のものとして受け入れていったのには何かワケがありそうである。 彼の“グレイトサザン”も、最初は単なるお気楽な「学生バンド」であった。 桑田佳祐の慧眼は、ズバリ「面白きゃいい」という視点。 そのアイデアをもってして「ロック対フォーク」、「ロック対歌謡曲」というイデオロギーにがんじがらめ...
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asahi.com(朝日新聞社):「人間国宝もいただきたい」仏勲章の北野武監督が帰国 - 文化
「コマンドール章」のメダル(左)と手製の「金メダル」を手に、笑顔を見せる北野武さん=13日午後、成田空港、長島一浩撮影  フランス芸術文化勲章の最高章コマンドールを受けた映画監督でタレントの北野武さん(63)が13日帰国し、成田空港で受章会見を開いた。北野さんの第一声はもちろん厳粛なものであるはずもなく、「日本の文化勲章と人間国宝も一日も早くいただきたい。人間国宝になって無銭飲食で捕まるというのが...
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フランス、カルティエ現代美術財団でビートたけし/北野武の展覧会 | エキサイトイズム
3月11日(現地時間)からフランス・パリ市内のカルティエ現代美術財団で「BEAT TAKESHI KITANO GOSSE DE PEINTRE」(ビートたけし/北野武 絵描き小僧)が開幕する。ビートたけし/北野武氏による個展で、現代美術を皮肉りながら、絵画・映像・立体、さらにアトラクションなど多岐にわたる作品を展示するものだ。(c)Cartier 展覧会タイトルのアーティスト名「BEAT TAK...
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 暴力は「良い/悪い」で判断するものではない - 拷問ポルノとケロイドの両面宿儺
暴力 |  暴力描写、暴力行為、暴力的な文脈に人一倍興味がある。 自分の人格形成期である幼少時代には、テレビをつければガンダムで人がたくさん死んでいたし、ビートたけしはフライデー編集部にカチコミをかけていたし、ポプラ社の少年探偵団シリーズでは猟奇的な死体の描写をこれでもかと読んだ。今でも富野由悠季監督や北野武監督、大乱歩には深く感謝している。まっさらな子供時代に暴力を見せてくれてありがとう。暴力の...
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ダメ人間を見分ける、3つの面接テクニック | ライフハックちゃんねる弐式
1 : すずめちゃん(福島県):09/01/18 13:59 ID:JvGGb6LS ? 「シロクマの屑籠(汎適所属)」というブログの「“使えない奴”を足切りする為の面接テクニックについて」 と題されたエントリーがあり、ここでは企業が新入社員の面接を行うときに、数十分という短い面接時間の なかで、使えない人材をどう見分けるかというテクニックについて書かれている。 【1】嘘をついていないかを見極める...
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TBS終わったな・・・│ニュース2ちゃんねる
1 :裏漉し器(アラバマ州) :2010/03/08(月) 13:05:31.19 ID:cefp/TH7 「終わったな......」ビートたけしも呆れる"不動産屋"TBSの瀕死ぶり 長らく「報道のTBS」「ドラマのTBS」と呼ばれ、視聴率競争でも常に先頭集団を走っていたTBSだが、昨今の窮状に同局『情報7daysニュースキャスター』のキャスターを務めるビートたけしも呆れているという。 「ある週の...
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暇人\(^o^)/速報 : TBS終わったな・・・ - livedoor Blog(ブログ)
TBS終わったな・・・TBS終わったな・・・ 1 名前: 裏漉し器(アラバマ州)[] 投稿日:2010/03/08(月) 13:05:31.19 ID:cefp/TH7 BE:945109049-PLT(13072) ポイント特典 「終わったな......」ビートたけしも呆れる"不動産屋"TBSの瀕死ぶり 2010年03月08日08時20分 / 提供:日刊サイゾー 長らく「報道のTBS」「ドラマの...
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「終わったな......」ビートたけしも呆れる"不動産屋"TBSの瀕死ぶり - 日刊サイゾー
経営陣もお手上げ!?  長らく「報道のTBS」「ドラマのTBS」と呼ばれ、視聴率競争でも常に先頭集団を走っていたTBSだが、昨今の窮状に同局『情報7daysニュースキャスター』のキャスターを務めるビートたけしも呆れているという。 「ある週のTBSの全番組のなかで、『ニュースキャスター』内でたけしが担当する『たけしの三面記事新聞』のコーナーが最も視聴率が高かったそうなんです。それを聞いたたけしは『T...
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ナイナイ・岡村「お笑い芸人として傷つけられた自尊心」 | 世界は数字で出来ている
2010年03月04日放送の「ナインティナインのANN」にて、ロケで(めちゃイケ)茶道教室に行った時のことを岡村隆史が話していた。茶道教室の先生が「(打ち合わせの時と)話が違います。それは、茶道をバカにしています。そんな"おちゃらけ"で、茶道やられても困るんですよ」などとキレ始めた、と岡村は話していた(ナイナイ・岡村「めちゃイケのロケで傷ついた」)。 「ロケには協力しない。お引き取り下さい」の一点...
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岡村隆史が見せた"萎縮しない笑い" 批判を受け止めた『めちゃイケ』の流儀 - livedoor ニュース
岡村隆史が見せた"萎縮しない笑い" 批判を受け止めた『めちゃイケ』の流儀2010年03月04日08時20分 / 提供:  ナインティナイン、よゐこら"お笑い第四世代"によって、13年にわたってフジテレビ"土8"枠に君臨し続ける『めちゃ×2イケてるッ!』。ビートたけし、明石家さんまら"お笑い第二世代"によって同枠で放送された『オレたちひょうきん族』の8年を大きく更新し、現在も"リアルな笑い"を追求し...
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岡村隆史が見せた"萎縮しない笑い" 批判を受け止めた『めちゃイケ』の流儀 (日刊サイゾー) | エキサイトニュース
ナインティナイン、よゐこら"お笑い第四世代"によって、13年にわたってフジテレビ"土8"枠に君臨し続ける『めちゃ×2イケてるッ!』。ビートたけし、明石家さんまら"お笑い第二世代"によって同枠で放送された『オレたちひょうきん族』の8年を大きく更新し、現在も"リアルな笑い"を追求している。だが、『めちゃイケ』は「子どもに見せたくない番組」の上位にランクされ、人気コーナー"七人のしりとり侍"は「いじめを...
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岡村隆史が見せた"萎縮しない笑い" 批判を受け止めた『めちゃイケ』の流儀 - 日刊サイゾー
『ナインティナインのオールナイトニッ本 vol.2』 ワニブックス  ナインティナイン、よゐこら"お笑い第四世代"によって、13年にわたってフジテレビ"土8"枠に君臨し続ける『めちゃ×2イケてるッ!』。ビートたけし、明石家さんまら"お笑い第二世代"によって同枠で放送された『オレたちひょうきん族』の8年を大きく更新し、現在も"リアルな笑い"を追求している。だが、『めちゃイケ』は「子どもに見せたくない...
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博多大吉が見上げる世界 - てれびのスキマ
笑, 本 | 「選ばれし者は26歳の時に時代を掴む」という説はご存知だろうか?ダウンタウンは『ガキの使い』を、とんねるずは『おかげでした』を、そしてウッチャンナンチャンは『やるやら』を始めたのが26歳だった。さらに志村けんも、明石家さんまもナインティナインもまた時代の幕開けをつげる出来事は、みんな26歳の頃に起きているという。これは都市伝説の類ではない。これまでの人間が総出で編纂してきた「歴史」と...
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ぼやきくっくり | 「TVタックル」外国人地方参政権と強制連行の真偽
日本人は今、世界一、自分の国の歴史を知らない人たちになっている。自分の国の歴史を知らない人が、何で「国民」なのか。日本人の歴史を知らない人が、何で「日本人」なのか。(櫻井よしこさんの言葉)★外国人地方参政権付与法案を阻止しましょう。抗議・応援・要請先テンプレはこちら。情報交換の場として掲示板もご利用下さい。 ★選択的夫婦別姓法案もお忘れなく!署名用紙とチラシ配布中。 ★毎日観たい動画。眠ったままの...
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ビートたけし>「泣きそうになった」長嶋茂雄氏と8年ぶり再会 東京スポーツ映画大賞(まんたんウェブ) - Yahoo!ニュース
タレントのビートたけしさん(63)が審査委員長を務める「第19回東京スポーツ映画大賞」の授賞式が28日、東京都内のホテルであり、同時に授賞式が行われた「東スポ50周年特別賞」をプロ野球巨人の長嶋茂雄・終身名誉監督(74)に贈呈したたけしさんは「(会うのは)7〜8年ぶり。長嶋さんの前だとしゃべれなくなる」といい、「今日は(自分が長嶋さんに)よく表彰状を読めたと思う。泣きそうになった」と胸の内を明かし...
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フランスで近く自伝を出版、北野武監督にインタビュー 写真5枚 国際ニュース : AFPBB News
都内でAFPのインタビューに応じる北野武(Takeshi Kitano)監督(2010年1月27日撮影)。(c)AFP/Kazuhiro NOGI 【2月20日 AFP】映画『その男、凶暴につき』『ソナチネ』『HANA-BI』などで世界的に有名な北野武(Takeshi Kitano)監督。監督業だけでなく俳優、コメディアン、テレビ番組の司会など多彩な顔を持つ同氏の新たな側面を浮き彫りした自伝がフラ...
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松村邦洋 己を棄てて己を活かす「笑われる天才」が生きる道 - 日刊サイゾー
写真=田中まこと  1992年から98年まで、過激なロケ企画の数々で一時代を築いた伝説のバラエティー番組『進め!電波少年』(日本テレビ系)が、3月12日よりCS放送の「日テレプラス」にて毎週放送されることになった。松村邦洋と松本明子がアポなしで無謀な挑戦をする企画や、社会現象にもなった猿岩石のユーラシア大陸横断ヒッチハイクなどが続々とオンエアされる予定。一世を風靡した伝説の番組を改めて振り返りたい...
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ヨーロッパサッカー情報のスクランブル交差点「EURO FOOTBALL JUNCTION」
京都情報のスクランブル交差点「京都情報ジャンクション」

Wikipediaサマリーなネタの種

ビートたけし(本名:北野武(きたの たけし)、1947年1月18日 - )は、東京都足立区島根出身の日本のテレビ司会者、お笑いタレント、映画監督、俳優、東京芸術大学大学院映像研究科教授(監督領域)、元漫才師(ビートキヨシとともに、ツービートとして活動)。

概要

情報番組の司会を数多くこなす他、ピアノ、タップダンスも行う。また、立川談志の門下生でもあり、「立川錦之助」という高座名も持つ。血液型はO型。

オフィス北野に所属し、この事務所の中心人物でもある。タモリ・明石家さんまとともに、「日本のお笑いタレントBIG3」の1人にあげられ、また、映画監督としてもカンヌ等の世界的な映画祭で数々の受賞歴を有する。愛称は「たけちゃん」・「殿」等。映画関係では本名の「北野武」、それ以外では「ビートたけし」を名乗ることが多い。

明治大学中退だが、2004年に同大学特別卒業認定者となった(後述)。

来歴

幼少時代

東京都足立区島根町にて、ペンキ職人の父・北野菊次郎と、母・北野さきの四男(次男が夭折し、実質は三男として育つ)として誕生。「竹のようにどんなものにも耐えてすくすく伸びてほしい」という願いから、「武(たけし)」と名付けられた。色白で細面、身体は小さいが俊敏で友人からは「ターチ」と渾名された。兄姉とは年が離れていたため、祖母に非常に可愛がられて育った(家族構成は「家族・縁戚」を参照)。

足立区立梅島第一小学校に入学。教育熱心だった母の薫陶が功を奏し成績は優秀で、特に算数と図画工作が得意だった。小学校卒業後は母親が進学校を希望したため、近隣の中学ではなく、遠く離れた足立区立第四中学校へ入学した。中学卒業後、東京都立足立高等学校に入学。なお、小・中・高といずれも野球部に所属(高校は軟式野球部)したが、高校時期にヨネクラジムにボクシングを習っていたという。なお、演芸場時代は漫才師の野球チーム『メダトーズ』に加入していた。

大学時代

1965年(昭和40年) 高校を卒業後は母親の薦めで、明治大学工学部(後の理工学部)機械工学科に現役合格し入学。しかし大学2年の時、家出同然に一人暮らしを始め、新宿界隈で当ての無い日々を送るようになる。

学生運動にも参加したが熱心ではなく、ジャズや新風俗に傾倒する。“LeftyCandy”や新宿ACB(アシベ)、風月堂などに入り浸った。また、ジャズ喫茶のボーイもしたが、ジャズの見識は一部で有名であった。新宿のジャズ喫茶『ビザール』では、若松孝二、小水一男らと知り合う。『ヴィレッジ・ヴァンガード』で、早番のボーイとして働いていた時は、連続射殺事件で逃走中だった永山則夫が遅番のボーイとして働いていた。『ジャズ・ビレッジ』の壁に書かれていた文章「強く生きよと母の声、死ねと教えし父の顔、何のあてなき人生なり」が心に残ったという。[1]。

この頃は青春の葛藤期でもあり、友人の下宿に居候しアルバイト三昧の青春時代を過ごした。菓子の計り売りや実演販売員、ビルの解体工、クラブのボーイなど仕事先を転々とする。羽田空港の荷役業では、ジャズ喫茶の常連客だった中上健次と共に働いた。のち通訳になろうと思い立ち、留学費用を稼ぐ目的でタクシーの運転手を務めるも半年で退社、ガソリンスタンドでアルバイトをした。この間、若松との縁で『新宿マッド』『腹貸し女』など、幾つかの若松プロ初期作品に端役ながら出演[2]したり、学生演劇に参加したが、ヴォードヴィルのような軽演劇で、舞台役者ではなく構成に携わっていたという。

大学は140単位のうち106単位まで取得していたにも関わらず、結局通学せずに除籍となった(なお、2004年9月7日、明治大学より「特別卒業認定証」[3]及び知名度アップに貢献したとして「特別功労賞」を受けた)[4]。

前座時代

学生運動は収束に向かい新宿からはフーテンが閉め出されるようになる。自身も去就を模索する必要に迫られた。芸能に興味はあったが、アングラ演劇には馴染めず、「理工系なので文学的なものはわからない、しかし演芸なら自分にも理解できるだろう[5]」という理由で、いつしか芸人を志望するようになった。

1972年(昭和47年)夏、浅草のストリップ劇場・浅草フランス座で、芸人見習い志願としてエレベーターボーイを始める。当時、たけしと思しき人物を見た井上ひさしは「不機嫌そうな青年[6]」と、その印象を述べている。 やがて、同劇場の経営者兼座長であった深見千三郎に師事し、前座芸人・北千太としてコント(軽演劇)を学ぶ。幕間コントに出演して腕を磨き、芸人としてタップダンスの修業にも励む。座員の多くが深見を近付き難い存在として見ていたが、たけしは物怖じしなかったため深見から気に入られた。舞台ではアドリブを駆使し、言葉の拾い方に独特の斬新さがあったため一目置かれるようになった。

フランス座時代は長いものではなかったが、深見をはじめ井上こんさい(井上雅義)ら、キャリア形成に大きな影響を与えた人物が多かった。

ツービート結成

詳細はツービートを参照

フランス座に出入りしていた2年先輩の兼子二郎から漫才コンビを組むよう誘いを受け、当時フランス座は経営難で給料の支払いすら事欠くようになっていたことや、背広一つで稼ぐことができる漫才に魅力を感じていたことから、『松鶴家次郎』の芸名で舞台に上がることを了承した(兼子の芸名は『松鶴家二郎』)。

当初は正統派の掛け合い漫才で全く芽が出ず、フランス座にいた頃よりも貧窮した。兼子が一時コロムビア・ライトの付き人をして生活を凌いでいたため、その縁で空たかし・きよし(コロムビア・トップ・ライトの一門は皆「青空」の家号を名乗るが、片方の弟子なので「空」だけとなった。)と名乗り営業に出たこともあった。演芸場のギャラは安いため、地方キャバレーなども回るようになるが、たけしは酔客相手の仕事を嫌い、出番をすっぽかしたり、酩酊して舞台に上がることが多かった。また、店を誹謗したり、客やホステスに喧嘩を吹っ掛けたので、度々舞台から降ろされた為、兼子は場繋ぎに使う奇術ネタを用意していたという。そしてこの頃から「暴走ネタ・危険ネタ」へシフトしていった。

紆余曲折ののち、2人はコンビ名を「ツービート(two beat)」へと変更し、兼子は「ビートきよし」、たけしは「ビートたけし」を芸名とした。

この頃、大阪で頭角を現して来たB&Bのスタイルに触発され、スピードを早めて喋りまくるスタイルへ変貌した。 服装もタキシードに蝶ネクタイからアイビー・ルックに変えて、古臭い漫才師の様式から脱却を図った。当初ツービートは代演で松竹演芸場の舞台に上がっていたが、支配人に認められてからは出演回数も安定するようになる。毒舌の限りを尽くした掟破りのネタもさることながら、ボーイズグループの楽器を拝借して現れたり、座布団の上に座って漫才を行なうなど型破りな舞台が多く、ツービートが漫才を始めると(他の芸人が観に行くので)楽屋が空っぽになると評判になった。

黎明期

演芸場での人気とは裏腹に、その破壊的な芸風は一部の関係者に受け入れられず激しい抑圧を受け[7]、漫才協団から脱退を求める声すら起きたという。1976年(昭和51年)協団が主催するNHK新人漫才コンクールにツービートは3年連続で出場したが最優秀賞を獲得することは出来なかった[8]

1978年(昭和53年)、新宿区高田馬場の芳林堂書店前で持ちネタの全てを披露する漫才ライブを開催したが、この企画をした高信太郎との繋がりでたけしも高平哲郎、赤塚不二夫、タモリらと一時期交友関係を持った。その後、「酒を飲んで軽いジョークを言いあったりする、あのシャレた笑い」が肌に合わずじきに離れた。

1979年(昭和54年)、女流漫才師「ミキ&ミチ」の内海ミキと結婚。犬吠埼(千葉県)にて新婚旅行を済ませたのち、亀有のアパートで生活を始める。

11月「花王名人劇場」において、人気落語家・月の家円鏡(8代目・橘家圓蔵)の共演者に抜擢される。才気絶倫だが古典派から「邪道」と言われた円鏡と、「邪道漫才師」ツービートを競演させ、「円鏡 VS ツービート」と銘打って放送されたこの企画が好感触を得たことで、「激突!漫才新幹線」制作への布石となり、のちの漫才ブームへ繋がった。

漫才ブーム

1980年『マンザイブーム』(旧来の“漫才”と区別される為にカタカナ表記)が起こり、ツービートは毒舌漫才と毒舌ネタを売り物にB&B、ザ・ぼんち等と共に一躍知名度を上げた。

速射砲さながらに喋りまくり、時おり弾倉を交換するかのごとく首を「くっ」と捻るたけしの姿は、個性派揃いの漫才師の中でも異彩を放った。その毒舌が織りなすネタの主題となったのはジジイ・ババア・ブス・カッペ(田舎者)で、さらにウンコとヤクザとガキが頻繁に登場した。また、金属バット殺人事件や深川通り魔殺人事件といった時事性の高い話題をいちはやくギャグに取り入れた。これらの不謹慎ネタは「残酷ギャグ」等と批判を受けることもあったが、それに対してたけしは「たかが漫才師の言う事に腹を立てるバカ」と言ってのけた。日本船舶振興会のCMを皮肉って作られた「注意一秒ケガ一生、車に飛び込め元気な子」「気をつけよう、ブスが痴漢を待っている」「寝る前にきちんと絞めよう親の首」「赤信号みんなで渡れば恐くない」等の一連の標語ネタは「毒ガス標語」と言われ、ブーム初期の定番ネタとなった。

1980年6月、ネタ本『ツービートのわッ毒ガスだ』を発刊し、年末までに売上約85万部のヒット作となった。当初、事務所側はせいぜい3万部程度の売り上げと見込んでおり、印税全額を二人が受け取る契約を結んでいたため大金が転がり込んだという。

このころツービートは、TBSの『スター爆笑座』という番組に出演しており、司会のせんだみつおと仲が良かった。楽屋での雑談中に、たけしは「コマネチ!」のギャグを生み出し[9]、このアクションは、たけしの代表的ギャグとして知られるようになった。1981年1月、TBSで『二百三高地』の連続ドラマが製作され、ツービートは兵卒としてキャスティングされたが、たけしは乱戦の最中『コマネチ!』で自己主張をはかり監督以下の顰蹙を買った。後年ヴェネツィア国際映画祭でグランプリを受賞した際には、『コマネチ!』という記念本に寄せてコマネチ本人から祝福の手紙が贈られた。

1981年10月、フジテレビは漫才師による昼の帯番組『笑ってる場合ですよ!』を開始し、ツービートは火曜日のレギュラーとなった。1982年10月、ブームの終焉と共に番組も終了したが、最終回でたけしは客に対し「何でもゲラゲラ笑いやがって!本当はお前らみたいな客、大っ嫌いだったんだよ!」と語った[10]。

1982年(昭和57年)の夏にはブームは完全に収まったが、“タレント・ビートたけし”として漫才以外でも世間に知られるようになる。以降、単独で司会をする番組を多く持つようになった。

漫才ブーム以後

漫才ブームを生き残ったたけしは自身のスタイルを大きく転換させる。毒舌家というパブリックイメージはそのままに、ネタに依存する消耗度の高い喋りを捨て、パーソナリティを軸とした腰の据わった芸風に移行していく。

また、1981年(昭和56年)元旦からニッポン放送(LF)系のラジオ番組「ビートたけしのオールナイトニッポン」、1981年(昭和56年)5月からフジテレビ(CX)系の『オレたちひょうきん族』が夫々開始された。

1982年から84年にかけて番組出演中に弟子志願者(正式な門下は取らない主義の為“ボーヤ”と呼ばれる)が押しかけ、相当の数が集まった事(「たけし軍団」)から、集団で行うバラエティを模索しNTV系スーパージョッキー、TBS系笑ってポン等が始まった。また、博識が評価されTBS世界まるごとHOWマッチ等で文化人的な出演要請も増えた。

* NTV=スーパーJOCKEY
* NTV=天才!たけしの元気が出るテレビ
* ANB=ビートたけしのスポーツ大将
* TBS=風雲!たけし城
* NTV=OH!たけし
* TBS=世界まるごとHOWマッチ(MBS制作)
* CX=オレたちひょうきん族
* LF=オールナイトニッポン

上記は1985年当時のレギュラー番組全てであるが、このうちNTV ANB TBS CX全ての20時台の最高視聴率をマークした。尚、たけし城、元気、スポーツ大将は全て実質ビートたけし本人の企画・構成によるものである。その他放送以外に歌手としてのレコードリリースとライブ活動、文学小説の出版、“たけしの挑戦状”等のゲーム企画も行った。

映画監督「北野武」

「その男、凶暴につき」(1989年)は、当初 監督:深作欣二 主演:ビートたけしで映画化を予定し、配給の松竹は両者の間で交渉を進めたが、スケジュールや条件で合致しなかった為、深作が監督を辞退した。そこで松竹は人物的魅力と話題性から、たけし(以下、映画の項目では「北野」で表記)に監督の依頼を持ちかけたところ、テレビの仕事と両立させることを前提として承諾。1週間おきの撮影という珍しい形態が採用された。映画監督・北野武のデビュー作『その男、凶暴につき』は1989年に予定通り公開された。

1997年(平成9年)、映画「HANA-BI」が、第54回・ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞。本映画祭における日本作品の「金獅子賞」受賞は39年ぶり。発表直後、北野は「異分野出身者でも大きな賞を取れると示すことができ、これから映画目指す者に刺激になったと思う」と語った。授賞式では「また日伊同盟を組んで他国を攻めようぜ」と英語でスピーチ。帰国時の記者会見で現地の土産物屋で購入した金獅子像のミニチュア(約280円)を披露して笑いをとった。

第52回カンヌ国際映画祭(1999年)コンペティション部門に正式参加した映画「菊次郎の夏」で約10分間のスタンディングオベーションを受けた。

2005年4月に東京芸術大学で新設された大学院映像研究科の教授および映画専攻長に就任した(監督領域の教授は北野含めて2名のみ)。北野大も淑徳大学教授であったので兄弟で教授となった。

「2007年8月、第60回カンヌ国際映画祭にて、北野の映画監督作「監督・ばんざい!」に基づき「GLORY TO THE FILMMAKER」賞が新設され、表彰式に出席した。

自著「時効」の中で40代中盤を迎えたあたりから頭の回転が鈍り言葉が出にくくなる、突っ込みが鈍くなるなどの年齢からくる衰えが出始めたが当時はまだまだタレントとして盛りで世間が俄然たけしの毒舌を期待していたためギャップで悩んだと述べている。そして同著の中ではもう若いときのような毒舌は出来ないからテレビに出る時はおもしろいおじさん的な立場で出られればいいとも述べている。

「キタノ映画」

「キタノ映画」の特徴

「キタノ映画」のビジュアル面での最大の特徴は、「キタノブルー」と評される青の色使い。また、多くの作品で登場人物の「死」が描かれ、青みの深い画面のもたらすひんやりした映像感覚とあいまって、全編に静謐な不気味さを醸し出している。

こうした一貫したカラーを持つ一方で、撮影時のアングルや編集のリズム、自身の絵画の導入、CGによるエフェクトなど、一作ごとに新たなチャレンジや創意も感じさせる。映像に一層の格調高さを与えている久石譲の音楽(3作目以降)も「キタノ映画」には重要な存在である。

エピソード

2007年、第60回カンヌ国際映画祭に招待された際に、同じく映画祭に招待された松本人志が自身の初監督作品(『大日本人』)の試写上映の途中で席を立つ観客を見てショックを受けたことに対して、北野は「こんなことは当たり前だ。10年も映画監督をやればどうにかなる。他の監督より才能がある」と松本を励ましたという[11]。

なお、北野は生前の黒澤明と面識があり、北野は黒澤を大島渚と共に敬愛している。北野のベスト映画は『七人の侍』。また、東京スポーツ新聞社主催の「東京スポーツ映画大賞」では北野自らが賞を選定するが、北野は東スポ映画大賞の常連の受賞者でもある。

監督作品

* 『その男、凶暴につき』(1989年)
* 『3-4×10月』(さんたいよんえっくすじゅうがつ)(1990年)
* 『あの夏、いちばん静かな海。』(1991年)
* 『ソナチネ』(1993年)
* 『みんな~やってるか!』(1995年)
* 『キッズ・リターン』(1996年)
* 『HANA-BI』(1998年)
o ヴェネチア国際映画祭でグランプリ(金獅子賞)受賞作。
* 『菊次郎の夏』(1999年)
* 『BROTHER』(2001年)
* 『Dolls』(2002年)
* 『座頭市』(2003年)
o シッチェス・カタロニア国際映画祭グランプリ、ヴェネチア国際映画祭監督賞受賞。
* 『TAKESHIS'』(2005年)
* 『監督・ばんざい!』(2007年)

ビートたけし登場以後、TV業界へ与えた影響

MANZAIブームは、それまでドリフターズや萩本欽一などお笑いスターを中心に据えて存立していたバラエティ番組を大きく変えるきっかけになった。「オレたちひょうきん族」で茶の間に認知されたビートたけしは、その「ひょうきん族」自体では他の出演者への突っ込み役に徹することが多かったが、「お笑いサドンデス」「笑ってポン」等でそれまでの平和型のコントやギャグよりも、むしろ過激で無謀な方向性のギャグを志向した。そして1985年以降のバラエティ黄金期では一般視聴者(素人)を重要な役割で参加させる番組を提示し、それまでバラエティ番組は芸人主導のものとされていた常識を覆し、素人も主役に据えた。

価値観

数学に対して

大学が理系であった事からも分かるように、数学に対する造詣は深く、「もし道を間違えなかったら、数学の研究者になりたかった」とも語っている。また、かつて「ここがヘンだよ日本人」に出演した少女の、「数学なんか学んで何になる」という言葉に対し、「世の中の全ての現象は数学に支配されており、数学で説明できる」と語った一方で、「平成教育委員会」の算数の授業で、「数学は答えさえ合ってれば良い」と理系出身者とは思えない理由で、論拠が誤っている正解者を優等生に選出したこともあった。

環境問題に対して

1992年、『新潮45』の連載にて「『地球にやさしく』なんかできない」のタイトルで、当時の政財界やマスコミによる「エコロジーブーム」の欺瞞性および浅薄さを皮肉った[12]。この「『地球にやさしく』- 」は同年6月18日付けの朝日新聞に「ビ-トたけしと地球環境」と題した、環境問題への無関心を戒める社説が掲載されるなど反響を呼んだ。このことについてたけしは「芸人の言っていることをいちいち真面目に取り上げるな」などと当時の『新潮45』の連載および『世紀末毒談』で述べた。なお、この評論は1996年の山形大学教育学部の入学試験の小論文試験の出題にも使用された。

スポーツ

サッカー(Jリーグより以前の国内・海外選手に詳しい)や野球をこよなく好み、長嶋茂雄を敬愛している。草野球チームとしての『たけし軍団』では投手を務めることもある。野球をする時のたけしは真剣であり、川崎球場での番組収録中、グラウンドに男性アイドルが登場したため女性ファンの歓声により、試合どころではなくなってしまった。その際に誰よりも早く「ここはグラウンドで野球をやってるんだぞ!コンサートじゃねえんだ!」とスタッフを一喝した。

神宮外苑の軟式球場が一種のホームグラウンドで、最盛期は年間70試合近くも行い、1991年の阪神タイガース・ファン感謝デーで軟式ルールながら阪神に勝利した。作家・伊集院静が連載していたエッセイ『二日酔い主義』の中には、たけしと一緒にプレーをした記憶に触れる回が幾つかあり、『たけしのグローブ(伊集院静『あの子のカーネーション』文藝春秋、 1989年。)』では、たけしの使い込まれたグローブに強かな野球少年の面影を重ねて描かれている。本作で三原脩に準えられたそのユニフォーム姿は、イラストレーター・佐々木悟郎の手によって水彩画に仕立てられ『スポーツシャワー〜ヒーローに花束を〜』の中で使用されていたことがある。

格闘技ではボクシングを好み、自身もジムに通った経験を持つ。映画の中で人を殴るシーンや『座頭市』における逆手切りのフォームには影響が垣間見える。浅草時代を知る石倉三郎は「タケちゃんのケンカはボクシングスタイルで結構パンチも早かった」と述べている。なお、たけし自身は1963年の高山一夫 vs 勝又行雄戦、1971年の金沢和良 vs ルーベン・オリバレス戦をベストマッチに挙げている。その一方で、1987年のたけしプロレス軍団にまつわる騒動において苦い経験もした。また、空手で骨折し拳の一部が変形している。

一方で、鉄棒の逆上がりや跳び箱といった器械体操の類は不得意であり、跳び箱ができないことは後にたけしの出演番組内でもネタにされ、「たけしの跳び箱オリンピック」と題した苦手克服企画が1988年の年末に放送された。

タップダンス・ピアノ

漫才ブームが過ぎ、次代に生き残る為の材料を思索していた時期、たけしはテレビの更なるバラエティショー化が進むと予想し、「タップとピアノ位はやれないとみっともねえだろ」という発想が生まれた[13]。以降、たけし軍団でもタップ・楽器・太神楽(ジャグリング)が必修科目となった。太神楽は海老一染之助・染太郎を師匠として学んだが、染之助の技は花柳流名取であったことに由来すると知り、日本舞踊を習うようになった。

タップダンスに対する思い入れは深く、毎日練習を欠かさず行なう。映画「座頭市」の撮影では踊るシーンが無いのにも関わらず練習をしていた。海外に渡航する際ですらタップシューズを持参するという。

ピアノを弾くのはバイエル、ツェルニー、そしてソナチネ(練習曲から本格的な楽曲へ移る分岐点にあたる)までで、それ以上の域に到達する必要はないと言う。ピアノ奏者レベルまで目指すのは本末転倒で、タップもピアノも「真剣にやろうと思えばやれる」ところまで到達し、それ以降はいかにアレンジして見せるかを考えるのが芸人の仕事だと語った。

写真

写真を撮影するという行為についてたけしは、「究極の映画とは、10枚の写真だけで構成される映画であり、回ってるフィルムをピタッと止めたときに、2時間の映画の中の何十万というコマの中の任意の1コマが美しいのが理想だと思う。例えば女性のヌードを撮影するってのも、ただ裸の女が出てるだけではなく、ストーリーの中で女が脱いでいくというものであり、グラビアは映画の原型みたいなものだと思う」と述べている[14]。

家族・縁戚

父の叔母で実質の祖母である北野うし(1877年生)は明治時代に娘義太夫の花形であった。2人の兄と1人の姉がおり、次兄はタレントで明治大学教授、工学博士の北野大である。妻は元漫才師の北野幹子(旧姓・松田)、長男、長女の井子。レーシングドライバーの松田秀士は義弟である。 たけしが芸人を志したとき北野家の誰もが反対したが、長兄の妻(たけしにとっては義理の姉)だけは「武さんは必ず出世する」と断言したという。

事件・事故

フライデー襲撃事件

詳細はフライデー襲撃事件を参照

1986年12月9日に、たけし軍団とともにフライデー襲撃事件を起こし逮捕。懲役6ヶ月、執行猶予2年判決(東京地裁、確定)。当時のレギュラー番組天才・たけしの元気が出るテレビ!!や痛快なりゆき番組 風雲!たけし城、スーパーJOCKEYへの出演を半年間辞退した。なお、女子大生に暴行で告訴された記者は罰金10万円の判決を受けた。

1987年、映画監督・深作欣二は、謹慎中の身にあったたけしと京都において初対面。その印象を「非常に鋭い顔をしている。笑っていても目は笑わんし、顔立ちが独特だ。いろんな人間とシビアな闘争をしてきた男の顔だ」と語った。

バイク事故

1994年8月2日午前1時40分。東京都新宿区の都道で飲酒運転での原付バイク事故を起こし、入院生活などで半年間テレビへの出演が出来なかった。酒気帯び運転にて書類送検されたが起訴猶予。退院時、暫くは顔面の半分が麻痺した状態であった。リハビリにより回復したが、復帰当時は「頭にボルトが入っていて飛行機の金属探知機に引っかかる」「顔面麻痺が治らなかったら芸名を顔面マヒナスターズにします」と自らの怪我をネタにした。

テレビ朝日「やじうまワイド」で大島渚は「僕は彼の心情を想うと、友人として何も言う気にはなれない」とコメントした。

上記事故で生死の境を彷徨っていた時、たけしの夢の中に既に亡くなっていた逸見政孝が出てきたという。たけしは、「あれは、まだ俺が死んじゃいけない。って逸見さんが言いに来てくれたんだろうな」と、退院後のインタビューで答えた。

人物

人間は「振り子」であるとして、「思い切り悪いことのできる奴は思い切りいいこともできる、思い切りバカなことのできる奴は思い切り真面目なこともできる」とし、映画監督として評価を得た後もバラエティ番組に出演することにはそうした理由もあるとコメントした。

自称は「俺」「僕」「オイラ」。それぞれ場の雰囲気に合わせ使い分けている。「オイラ」は下町・職人言葉の位置づけで、自身が育った島根町が職人街だったことと関連するとしている。かつて足立区の広報誌から受けたインタビューでは「足立は東京の下町だね。その足立の下町が島根だというの。島根は下町の中の下町。足立の中の足立だって思うんだよね」とコメントした。

たけしの物真似をする際の動作として定番化している頻繁に首をひねる動作(ただし、たけし本人は1990年代以降はあまり見せなくなっている)は癖ではなく、ツービート時代に「トランポリンで飛び跳ねながら漫才をやってくれ」と頼まれ、稽古中に頭から落下してしまい頚椎を負傷したことによると、『週刊ポスト』の連載コラムで述べている。

評価

1981年、文芸評論家の鶴見俊輔は『広告批評』誌上における座談の中で、「ツービートはがきデカの位置に似ている」と評し、文芸評論家・高澤秀次はこの評を絶賛した。

1983年、吉本隆明は栗本慎一郎との対談集の中で、たけしの話芸を「自分を異化することによって自然の流れとしてしまう芸風」と評した[15]。この本は著名な知識人がお笑い芸人を真正面から評論したという点で各方面の反響を呼んだが、一方で的外れだという批判も大きかった[要出典](のちにたけしは栗本と対談。後日、作家の小林信彦に「ああいうインテリはお笑いがわかってないのが、よくわかりましたよ」と洩らしたという[要出典])。のちに吉本が「海燕」誌上で埴谷雄高と論争(1985年)になった際、たけしは『もっと阿呆になれ、吉本!』という文章を発表し「吉本さんは言い回しが難解」と指摘した。

色川武大は「才能は切れるが、それだけにいいところを一人占めしようとしすぎる」とし、榎本健一・藤山寛美・萩本欽一と並べて「自分の手足を切ってゆく」タイプの芸人に分類した(対極として、古川ロッパ・森繁久彌・タモリの名を挙げた)[16]。

一方で否定的な論評の一例としては1981年、ルポライター・鎌田慧が「ツービートの残酷ギャグはファシズムの兆し」と批判した[17]。またルポライター・吉岡忍は、ツービート(ビートたけし)をジョン・レノン射殺事件の犯人マーク・チャップマンに重ねて論じるほど忌諱していた(が、のちに吉岡はその認識を大きく変え、映画作品のルポルタージュを執筆するほど関心を寄せるようになった)。

それ以外にも辛淑玉、佐高信や諸井薫がたけしの軍団に対する態度を「権威主義的で弱い者いじめをしている」とそれぞれコラムなどで述べている。これら批判的な論評について、たけしは「冗談と本気の区別が付かない奴らがいる」と評している。

田中康夫は、たけしを自らと同じく「価値紊乱者」、すなわち既存の権威への挑戦者としつつも、1980年代中盤には『感覚の倫理学』および『ファディッデュ考現学』にて立川流への入門や軍団創設を「肩書きや権威など、精神的ブランドに依拠しており、日本の(当時たけしがなりたいと語っていた)レニー・ブルースになりそこねた」と評した。一方でたけしの過激な言動に隠された内面の繊細さもまた指摘し、フライデー襲撃事件の際にはフライデーの取材姿勢を批判し、たけしに擁護的な立場を取った[18]。その後田中はたけしとテレビ番組でたびたび共演するなど交流も持ったが、その後も「ドナルドダックのように嫌われることも厭わず本音で周囲に毒を吐く存在であったはずが、嫌われることを恐れ人気者であり続けようとミッキーマウスのように無難な優等生的発言しか行わなくなりつつある」といった意味の論評も『神なき国のガリバー』や『ニッポンご託宣』にて並行して行っている。またバイク事故直後にあえて顔面麻痺状態で会見に臨んだことに関しては評価したが、その後の本格復帰については「芸能界の一線からは退いた方が良かったのではないか、取り巻きや軍団を養うためだとすれば自活を促すべきだった」と評した。