ビートたけし

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ブログからのネタの種

政治
が、皆さんなから似たかよったかだと思うんです。政治家さん達の考えは。ここは一つ、『島田紳助』か『ビートたけし』にでもやらせたほうが日本のこれからを考えたらいいのでわないかと本気で思います。俺一人の力じゃどうにも
2008/09/06 06:55:29 [賞味期限ぎりぎりの今日]
"こんな裏切りがあるとは…"
圧倒的"な人だった。結婚願望が無かったわけじゃないけれど、(彼と)会っていなかったら結婚は今もしていなかったかも」とのろけた。会見には、レギュラー番組で共演するビートたけしも同席。渡辺から高井氏を紹介されたというたけしは「こいつ、モテる
2008/09/06 06:48:14 [しってる?]
更新通知 [最新統計情報]
。つまりm9っ`Д´) 統計的にいうと遠距離恋愛は・・ ちびっと難しいってこと。かな。痛いニュース 【聖火リレー】 ビートたけし、欽ちゃんを痛烈批判 「この人おかしいよ。 お笑いなのに愛と涙ばっかりで、インチキくせえ。 国に媚びる芸人なんて面白くない
2008/09/06 06:46:11 [マーケティングコア -実践的マーケティング戦略-]
JUNK2終了
ったんだよね、1年間くらい。で、その期間過ぎたら、もうね、ずっと飽きないの。それ以来、飽きないの。あとね、ビートたけしが嫌いな時期もあったわ。2、3年間くらい。で、その期間過ぎたら許せるのね。もうね、ぜんっぜん平気なの。
2008/09/06 06:37:25 [夢をつづる日々]
渡辺真理 の 結婚 報告会見に たけし 乱入
医学』(ABC・テレビ朝日系)の収録の後に行われたこともあって、 ビートたけし が同席。たけしは「仲良くしていたけど、いつの間にかこんなことになってて、オレの青春を返せ」と、たけしらしい祝福のコメントを送った。フリーアナウンサーの渡辺真理とビートたけし
2008/09/06 05:40:51 [ニュースセンター25時]
"こんな裏切りがあるとは…"
圧倒的"な人だった。結婚願望が無かったわけじゃないけれど、(彼と)会っていなかったら結婚は今もしていなかったかも」とのろけた。会見には、レギュラー番組で共演するビートたけしも同席。渡辺から高井氏を紹介されたというたけしは「こいつ、モテる
2008/09/06 04:14:31 [通販探検隊]
股の下のポニョ
眠れないっす。うへ。そういえばニュースでビートたけしさんが『股の下のポニョ』って言ってたけど あたしにはその意味が分かりません(><;) 股の下?ポニョ??誰か教えて〜(ノ_・。) そうだ!懐かしい写メ出てきたから載せ
2008/09/06 04:06:04 [どーでもいいブログ]
たけし嘲笑"勘違いアーティスト"
記事より引用。http://news.livedoor.com/topics/detail/3807616/ ビートたけしに対して、カルティエ現代美術財団から個展開催の誘いがあることが関係者の取材で明らかになった。「たけしの絵の才能とヨーロッパでの彼の知名度に目をつけたカルティエ財団が『
2008/09/06 02:59:01 [通販探検隊]
仕事でスタバへ
びっくり。フリーアナウンサーの 渡辺真理 (41)が4日に、 フジテレビ の高井一郎ドラマ制作センター企画部長(45)との結婚を発表したらしいです。ビートたけしさんも言葉を送ってました☆ そういえば ゴールデンエッグス のチロルチョコが出てるみたいです。要チェックですねぇ〜♪♪ チェックといえば
2008/09/06 02:17:43 [〜Your Levi's〜リーバイスのヴィンテージが1]
渡辺真理 出身高校ということ
発表した。相手はフジテレビのドラマ制作センター企画担当部長(45)。敏腕プロデューサーだという。なぜか渡辺の隣にビートたけしが立つ発表会見の模様が映される。たけしと彼女が出演する医療番組の収録後に行われ ...300 ーーーーーーーーーーーーーーーー ニュース引用終了 渡辺真理のみの情報です。関係
2008/09/06 02:16:53 [花々ブログ]

はてブ注目エントリーからのネタの種

ああ、昔にもどりたい あのビートたけしが24時間テレビを痛烈批判
1 名前:名無し募集中。。。[] 投稿日:2008/08/31(日) 22:54:11.37 0 ID: 1 名前:名無しさんにズームイン![sage] 投稿日:2008/08/31(日) 21:31:07.65 ID:K+7b7Vjl あのビートたけしが24時間テレビを痛烈批判 「24時間テレビから出演依頼がしつこく来てたんだけど全部断ってやったよ。 あんな偽善番組は大っ嫌いだ。誰がなんと言おうと俺は絶対出ないから。 ヨダレ垂らした芸能人どもがこの番組で...
2008/09/06 10:22:10 []
夢野の眼@ココログ: 気分が悪い公明党議員の発言
 買い物から帰宅してテレビを付けたら、「ビートたけしのTVタックル」の最中。  今日の内容は、「北京五輪の(秘)偽装体質毒ギョーザ&テロ隠しどこが国民目線!?自公連立に公明党の(秘)決断」で、出演はビートたけし、阿川佐和子、大竹まこと、江口ともみ、三宅久之、萩谷順、石原伸晃(自民党)、大口善徳(公明党)、長島昭久(民主党)、松原仁(民主党)。  ちょう...
2008/09/06 10:22:10 []
自閉世界: テクハラ文化
    “ 夢なんか無くたって、一つのことに秀でてな    くたって、生きていく権利があるんだから!”                        ビートたけし  「テクハラ」は、最も事件になりにくい究極のモラル・ハラスメントであり、みんなの向上心に付け込んだ 巧妙きわまる知的暴力である。  オリンピックなどで、メダルの取れそうな選手がよく ...
2008/09/06 10:22:10 []
痛いニュース(ノ∀`):もう一度見たい、復活して欲しいバラエティ番組ランキング
1 名前:☆ばぐた☆ ◆JSGFLSFOXQ @☆ばぐ太☆φ ★ 投稿日:2008/08/06(水) 16:56:48 ID:???0 「もう一度見たい、復活して欲しいバラエティ番組ランキング」で堂々の第1位となったのは、1969年から1985年まで16年間にわたって放送された国民的番組《8時だョ!全員集合》。 ザ・ドリフターズのメンバーと豪華なゲストによる絶妙の掛け合いや大掛かりなセットを使用したコントの数々は、お...
2008/09/06 10:22:10 []
深夜番組のカリスマの実像 - ハックルベリーに会いに行く
日刊サイゾーの記事 「日刊サイゾー」に興味深い記事があった。 現役ディレクターが吼える「テレビバラエティは死んだか」(前編) : 日刊サイゾー これは、日刊サイゾーが現役のテレビディレクターに、テレビの現状について(特にバラエティ番組について)インタビューした記事だ。インタビューしたのは「マッコイ斉藤」さんというバラエティ番組のディレクター。紹介...
2008/09/06 10:22:10 []
FNS27時間テレビ感想(総評)
今年の27時間テレビは面白かった。もちろん、27時間のうち全部が全部面白かったというわけではない。ちょっとどうかと思う部分もあった。でも、全体としては最高に近い出来だったと思う。 基本的に、自分を含めてほとんどの人は、今のテレビに対してあきらめに近い感情を持っているのではないかと思う。テレビがあんまり面白くない。でもしょうがないよね、と。 そんな...
2008/09/06 10:22:10 []
現役ディレクターが吼える「テレビバラエティは死んだか」(後編) : 日刊サイゾー
マッコイ斉藤氏の手によるDVD作品。右/『ノーマニフェスト for UESHIMA』 左/『我々は有吉を訴える ~謎のヒッチハイク全記録~』。 前編はこちら ──そんなマッコイさんから見て、今、面白いと思える番組はありますか? 斉藤 ありますよ。頑張ってる人は頑張ってますよ。特にテレビ東京の深夜枠はあなどれない。時流に媚びずに、面白いバラエティをガンガン作ってますか...
2008/09/06 10:22:10 []
現役ディレクターが吼える「テレビバラエティは死んだか」(前編) : 日刊サイゾー
 ここ数年のお笑いブーム、いざ立ち止まって考えてみると、きわめて空虚な笑いしかない。かつて存在していたような、作り込まれたバラエティ番組はこのまま消えてしまうのだろうか? 笑いの限界に挑戦しつづけるマッコイ斉藤氏にバラエティ界の現状について聞いた。 マッコイ斉藤(以下、斉藤) で、今日は何の取材でしょう? ──「テレビはなぜ死んだのか?」という...
2008/09/06 10:22:10 []
はてなブックマーク - 痛いニュース(ノ∀`):27時間テレビの「車破壊企画」に非難殺到…抗議の電話をする視聴者も
1 名前:依頼307 投稿日:2008/07/28(月) 03:30:56.76 ID:lRah2yd70 ?2BP (以下抜粋) 27時間テレビをご覧になっている方はわかると思いますが・・・・・。 ビートたけしが岡村君/さんまさんの車に絵を書くと言う意味不明な場面が流されまして。それも岡村君(アルファ147)の車が、さんまさん(Gクラス)の車の上に乗っかっているという状況・・・・・。あろう事か、北野氏はその下のGク.....
2008/09/06 10:22:10 []
マキタスポーツ | 爆笑“仮説”問題
爆笑問題について少し考えてみた。 爆笑問題は、ビートたけしコンプレックスから脱却した、日本のお笑い界に数例しかいない地獄からの生還者である。 太田光氏は、たけし氏の著書のあとがきにて、自身を「ニセモノ」と定義した。 たけし氏のことを“ホンモノ”として対比させているのである。 自身をニセモノと定義し、仮説を立てるその論法に、私は表現者太田光の凄み...
2008/09/06 10:22:10 []
痛いニュース(ノ∀`):「お笑い」つまらなくなったワケ
1 名前: ワッケイン(香川県) 投稿日:2008/06/25(水) 10:36:30.10 ID:iXNgKrme0 ?PLT 「お笑い」つまらなくなったワケ 横澤彪さんに聞く(上) フジテレビの元ゼネラル・プロデューサー横澤彪さんがJ-CASTテレビ ウォッチで連載中の「チャンネルGメン(69+1)」が、単行本「テレビの貧格」 (東洋経済新報社)として出版された。業界の「ご意見番」ともいえる横澤さんに、お笑いとテレ...
2008/09/06 10:22:10 []
マキタスポーツ | ビートたけしベンチャー論
ところで、全てのお笑い芸人が、というより、一部を除いて、ほとんどの表現者は皆、過去自分の好きだった世界に飛び込んでいると思う。 ところが、そうでもない人が一人いる。それがビートたけしだ。 我々はビートたけしになりたくてこの世界に飛び込んだくちだ。 しかし、お笑いが好きだから、とか甘ったるいことを言ってる時点でもう「たけし」にはなれない。 絶対に...
2008/09/06 10:22:10 []
洋七人脈駆使して「がばい」2度目映画化 - シネマニュース : nikkansports.com
 島田洋七(58)のベストセラーを映画化した「佐賀のがばいばあちゃん」の製作発表会見が20日、都内で行われた。洋七が初監督し、祖母を香山美子、母を高島礼子が演じる。06年に続き2度目の映画化。  友人のビートたけしには「お前は何もしなくていい」と言われたことを明かし「何も分かりませんから、たけしんとこでちょっと習おかなと思ってます」。洋七の...
2008/09/06 10:22:10 []
デブパレード : 総体重570kgのヘヴィメタボ・バンドがメジャー・デブー! / BARKS ニュース
◆総体重570kg!前代未聞のヘビーメタボ・バンド ◆“デブパレード”メジャーデブー!「少年よ体脂肪を抱け!」 スゴイ、スゴすぎるキャッチコピーだ…、デブパレード。デフレパードの誤植ではではない。 5人編成で、メンバーの総体重が570kg。「バンドやってます」と人に言うとメンバー全員「ドラム?」と返され、5人乗りの乗用車にメンバー全員が乗ると積載量オーバー...
2008/09/06 10:22:10 []
ジュセリーノ・ダ・ルース - Wikipedia
の出来事を日時まで特定し言い当てるという。予言の内容は事件や災害などが多く、予知の対象となった人物や政府などに手紙を送って未来に起こる出来事を警告している。加えて、その手紙のコピーを公証役場に送ったりしているという[1]。 2006年12月30日にテレビ朝日で放送された『ビートたけし緊急検証超常現象丸秘ファイル』というTV番組では、90%の予言が当たるとして紹介...
2008/09/06 10:22:10 []

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Wikipediaサマリーなネタの種

ビートたけし(本名:北野武(きたの たけし)、1947年1月18日 - )は、東京都足立区島根出身の日本のテレビ司会者、お笑いタレント、映画監督、俳優、東京芸術大学大学院映像研究科教授(監督領域)、元漫才師(ビートキヨシとともに、ツービートとして活動)。

概要

情報番組の司会を数多くこなす他、ピアノ、タップダンスも行う。また、立川談志の門下生でもあり、「立川錦之助」という高座名も持つ。血液型はO型。

オフィス北野に所属し、この事務所の中心人物でもある。タモリ・明石家さんまとともに、「日本のお笑いタレントBIG3」の1人にあげられ、また、映画監督としてもカンヌ等の世界的な映画祭で数々の受賞歴を有する。愛称は「たけちゃん」・「殿」等。映画関係では本名の「北野武」、それ以外では「ビートたけし」を名乗ることが多い。

明治大学中退だが、2004年に同大学特別卒業認定者となった(後述)。

来歴

幼少時代

東京都足立区島根町にて、ペンキ職人の父・北野菊次郎と、母・北野さきの四男(次男が夭折し、実質は三男として育つ)として誕生。「竹のようにどんなものにも耐えてすくすく伸びてほしい」という願いから、「武(たけし)」と名付けられた。色白で細面、身体は小さいが俊敏で友人からは「ターチ」と渾名された。兄姉とは年が離れていたため、祖母に非常に可愛がられて育った(家族構成は「家族・縁戚」を参照)。

足立区立梅島第一小学校に入学。教育熱心だった母の薫陶が功を奏し成績は優秀で、特に算数と図画工作が得意だった。小学校卒業後は母親が進学校を希望したため、近隣の中学ではなく、遠く離れた足立区立第四中学校へ入学した。中学卒業後、東京都立足立高等学校に入学。なお、小・中・高といずれも野球部に所属(高校は軟式野球部)したが、高校時期にヨネクラジムにボクシングを習っていたという。なお、演芸場時代は漫才師の野球チーム『メダトーズ』に加入していた。

大学時代

1965年(昭和40年) 高校を卒業後は母親の薦めで、明治大学工学部(後の理工学部)機械工学科に現役合格し入学。しかし大学2年の時、家出同然に一人暮らしを始め、新宿界隈で当ての無い日々を送るようになる。

学生運動にも参加したが熱心ではなく、ジャズや新風俗に傾倒する。“LeftyCandy”や新宿ACB(アシベ)、風月堂などに入り浸った。また、ジャズ喫茶のボーイもしたが、ジャズの見識は一部で有名であった。新宿のジャズ喫茶『ビザール』では、若松孝二、小水一男らと知り合う。『ヴィレッジ・ヴァンガード』で、早番のボーイとして働いていた時は、連続射殺事件で逃走中だった永山則夫が遅番のボーイとして働いていた。『ジャズ・ビレッジ』の壁に書かれていた文章「強く生きよと母の声、死ねと教えし父の顔、何のあてなき人生なり」が心に残ったという。[1]。

この頃は青春の葛藤期でもあり、友人の下宿に居候しアルバイト三昧の青春時代を過ごした。菓子の計り売りや実演販売員、ビルの解体工、クラブのボーイなど仕事先を転々とする。羽田空港の荷役業では、ジャズ喫茶の常連客だった中上健次と共に働いた。のち通訳になろうと思い立ち、留学費用を稼ぐ目的でタクシーの運転手を務めるも半年で退社、ガソリンスタンドでアルバイトをした。この間、若松との縁で『新宿マッド』『腹貸し女』など、幾つかの若松プロ初期作品に端役ながら出演[2]したり、学生演劇に参加したが、ヴォードヴィルのような軽演劇で、舞台役者ではなく構成に携わっていたという。

大学は140単位のうち106単位まで取得していたにも関わらず、結局通学せずに除籍となった(なお、2004年9月7日、明治大学より「特別卒業認定証」[3]及び知名度アップに貢献したとして「特別功労賞」を受けた)[4]。

前座時代

学生運動は収束に向かい新宿からはフーテンが閉め出されるようになる。自身も去就を模索する必要に迫られた。芸能に興味はあったが、アングラ演劇には馴染めず、「理工系なので文学的なものはわからない、しかし演芸なら自分にも理解できるだろう[5]」という理由で、いつしか芸人を志望するようになった。

1972年(昭和47年)夏、浅草のストリップ劇場・浅草フランス座で、芸人見習い志願としてエレベーターボーイを始める。当時、たけしと思しき人物を見た井上ひさしは「不機嫌そうな青年[6]」と、その印象を述べている。 やがて、同劇場の経営者兼座長であった深見千三郎に師事し、前座芸人・北千太としてコント(軽演劇)を学ぶ。幕間コントに出演して腕を磨き、芸人としてタップダンスの修業にも励む。座員の多くが深見を近付き難い存在として見ていたが、たけしは物怖じしなかったため深見から気に入られた。舞台ではアドリブを駆使し、言葉の拾い方に独特の斬新さがあったため一目置かれるようになった。

フランス座時代は長いものではなかったが、深見をはじめ井上こんさい(井上雅義)ら、キャリア形成に大きな影響を与えた人物が多かった。

ツービート結成

詳細はツービートを参照

フランス座に出入りしていた2年先輩の兼子二郎から漫才コンビを組むよう誘いを受け、当時フランス座は経営難で給料の支払いすら事欠くようになっていたことや、背広一つで稼ぐことができる漫才に魅力を感じていたことから、『松鶴家次郎』の芸名で舞台に上がることを了承した(兼子の芸名は『松鶴家二郎』)。

当初は正統派の掛け合い漫才で全く芽が出ず、フランス座にいた頃よりも貧窮した。兼子が一時コロムビア・ライトの付き人をして生活を凌いでいたため、その縁で空たかし・きよし(コロムビア・トップ・ライトの一門は皆「青空」の家号を名乗るが、片方の弟子なので「空」だけとなった。)と名乗り営業に出たこともあった。演芸場のギャラは安いため、地方キャバレーなども回るようになるが、たけしは酔客相手の仕事を嫌い、出番をすっぽかしたり、酩酊して舞台に上がることが多かった。また、店を誹謗したり、客やホステスに喧嘩を吹っ掛けたので、度々舞台から降ろされた為、兼子は場繋ぎに使う奇術ネタを用意していたという。そしてこの頃から「暴走ネタ・危険ネタ」へシフトしていった。

紆余曲折ののち、2人はコンビ名を「ツービート(two beat)」へと変更し、兼子は「ビートきよし」、たけしは「ビートたけし」を芸名とした。

この頃、大阪で頭角を現して来たB&Bのスタイルに触発され、スピードを早めて喋りまくるスタイルへ変貌した。 服装もタキシードに蝶ネクタイからアイビー・ルックに変えて、古臭い漫才師の様式から脱却を図った。当初ツービートは代演で松竹演芸場の舞台に上がっていたが、支配人に認められてからは出演回数も安定するようになる。毒舌の限りを尽くした掟破りのネタもさることながら、ボーイズグループの楽器を拝借して現れたり、座布団の上に座って漫才を行なうなど型破りな舞台が多く、ツービートが漫才を始めると(他の芸人が観に行くので)楽屋が空っぽになると評判になった。

黎明期

演芸場での人気とは裏腹に、その破壊的な芸風は一部の関係者に受け入れられず激しい抑圧を受け[7]、漫才協団から脱退を求める声すら起きたという。1976年(昭和51年)協団が主催するNHK新人漫才コンクールにツービートは3年連続で出場したが最優秀賞を獲得することは出来なかった[8]

1978年(昭和53年)、新宿区高田馬場の芳林堂書店前で持ちネタの全てを披露する漫才ライブを開催したが、この企画をした高信太郎との繋がりでたけしも高平哲郎、赤塚不二夫、タモリらと一時期交友関係を持った。その後、「酒を飲んで軽いジョークを言いあったりする、あのシャレた笑い」が肌に合わずじきに離れた。

1979年(昭和54年)、女流漫才師「ミキ&ミチ」の内海ミキと結婚。犬吠埼(千葉県)にて新婚旅行を済ませたのち、亀有のアパートで生活を始める。

11月「花王名人劇場」において、人気落語家・月の家円鏡(8代目・橘家圓蔵)の共演者に抜擢される。才気絶倫だが古典派から「邪道」と言われた円鏡と、「邪道漫才師」ツービートを競演させ、「円鏡 VS ツービート」と銘打って放送されたこの企画が好感触を得たことで、「激突!漫才新幹線」制作への布石となり、のちの漫才ブームへ繋がった。

漫才ブーム

1980年『マンザイブーム』(旧来の“漫才”と区別される為にカタカナ表記)が起こり、ツービートは毒舌漫才と毒舌ネタを売り物にB&B、ザ・ぼんち等と共に一躍知名度を上げた。

速射砲さながらに喋りまくり、時おり弾倉を交換するかのごとく首を「くっ」と捻るたけしの姿は、個性派揃いの漫才師の中でも異彩を放った。その毒舌が織りなすネタの主題となったのはジジイ・ババア・ブス・カッペ(田舎者)で、さらにウンコとヤクザとガキが頻繁に登場した。また、金属バット殺人事件や深川通り魔殺人事件といった時事性の高い話題をいちはやくギャグに取り入れた。これらの不謹慎ネタは「残酷ギャグ」等と批判を受けることもあったが、それに対してたけしは「たかが漫才師の言う事に腹を立てるバカ」と言ってのけた。日本船舶振興会のCMを皮肉って作られた「注意一秒ケガ一生、車に飛び込め元気な子」「気をつけよう、ブスが痴漢を待っている」「寝る前にきちんと絞めよう親の首」「赤信号みんなで渡れば恐くない」等の一連の標語ネタは「毒ガス標語」と言われ、ブーム初期の定番ネタとなった。

1980年6月、ネタ本『ツービートのわッ毒ガスだ』を発刊し、年末までに売上約85万部のヒット作となった。当初、事務所側はせいぜい3万部程度の売り上げと見込んでおり、印税全額を二人が受け取る契約を結んでいたため大金が転がり込んだという。

このころツービートは、TBSの『スター爆笑座』という番組に出演しており、司会のせんだみつおと仲が良かった。楽屋での雑談中に、たけしは「コマネチ!」のギャグを生み出し[9]、このアクションは、たけしの代表的ギャグとして知られるようになった。1981年1月、TBSで『二百三高地』の連続ドラマが製作され、ツービートは兵卒としてキャスティングされたが、たけしは乱戦の最中『コマネチ!』で自己主張をはかり監督以下の顰蹙を買った。後年ヴェネツィア国際映画祭でグランプリを受賞した際には、『コマネチ!』という記念本に寄せてコマネチ本人から祝福の手紙が贈られた。

1981年10月、フジテレビは漫才師による昼の帯番組『笑ってる場合ですよ!』を開始し、ツービートは火曜日のレギュラーとなった。1982年10月、ブームの終焉と共に番組も終了したが、最終回でたけしは客に対し「何でもゲラゲラ笑いやがって!本当はお前らみたいな客、大っ嫌いだったんだよ!」と語った[10]。

1982年(昭和57年)の夏にはブームは完全に収まったが、“タレント・ビートたけし”として漫才以外でも世間に知られるようになる。以降、単独で司会をする番組を多く持つようになった。

漫才ブーム以後

漫才ブームを生き残ったたけしは自身のスタイルを大きく転換させる。毒舌家というパブリックイメージはそのままに、ネタに依存する消耗度の高い喋りを捨て、パーソナリティを軸とした腰の据わった芸風に移行していく。

また、1981年(昭和56年)元旦からニッポン放送(LF)系のラジオ番組「ビートたけしのオールナイトニッポン」、1981年(昭和56年)5月からフジテレビ(CX)系の『オレたちひょうきん族』が夫々開始された。

1982年から84年にかけて番組出演中に弟子志願者(正式な門下は取らない主義の為“ボーヤ”と呼ばれる)が押しかけ、相当の数が集まった事(「たけし軍団」)から、集団で行うバラエティを模索しNTV系スーパージョッキー、TBS系笑ってポン等が始まった。また、博識が評価されTBS世界まるごとHOWマッチ等で文化人的な出演要請も増えた。

* NTV=スーパーJOCKEY
* NTV=天才!たけしの元気が出るテレビ
* ANB=ビートたけしのスポーツ大将
* TBS=風雲!たけし城
* NTV=OH!たけし
* TBS=世界まるごとHOWマッチ(MBS制作)
* CX=オレたちひょうきん族
* LF=オールナイトニッポン

上記は1985年当時のレギュラー番組全てであるが、このうちNTV ANB TBS CX全ての20時台の最高視聴率をマークした。尚、たけし城、元気、スポーツ大将は全て実質ビートたけし本人の企画・構成によるものである。その他放送以外に歌手としてのレコードリリースとライブ活動、文学小説の出版、“たけしの挑戦状”等のゲーム企画も行った。

映画監督「北野武」

「その男、凶暴につき」(1989年)は、当初 監督:深作欣二 主演:ビートたけしで映画化を予定し、配給の松竹は両者の間で交渉を進めたが、スケジュールや条件で合致しなかった為、深作が監督を辞退した。そこで松竹は人物的魅力と話題性から、たけし(以下、映画の項目では「北野」で表記)に監督の依頼を持ちかけたところ、テレビの仕事と両立させることを前提として承諾。1週間おきの撮影という珍しい形態が採用された。映画監督・北野武のデビュー作『その男、凶暴につき』は1989年に予定通り公開された。

1997年(平成9年)、映画「HANA-BI」が、第54回・ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞。本映画祭における日本作品の「金獅子賞」受賞は39年ぶり。発表直後、北野は「異分野出身者でも大きな賞を取れると示すことができ、これから映画目指す者に刺激になったと思う」と語った。授賞式では「また日伊同盟を組んで他国を攻めようぜ」と英語でスピーチ。帰国時の記者会見で現地の土産物屋で購入した金獅子像のミニチュア(約280円)を披露して笑いをとった。

第52回カンヌ国際映画祭(1999年)コンペティション部門に正式参加した映画「菊次郎の夏」で約10分間のスタンディングオベーションを受けた。

2005年4月に東京芸術大学で新設された大学院映像研究科の教授および映画専攻長に就任した(監督領域の教授は北野含めて2名のみ)。北野大も淑徳大学教授であったので兄弟で教授となった。

「2007年8月、第60回カンヌ国際映画祭にて、北野の映画監督作「監督・ばんざい!」に基づき「GLORY TO THE FILMMAKER」賞が新設され、表彰式に出席した。

自著「時効」の中で40代中盤を迎えたあたりから頭の回転が鈍り言葉が出にくくなる、突っ込みが鈍くなるなどの年齢からくる衰えが出始めたが当時はまだまだタレントとして盛りで世間が俄然たけしの毒舌を期待していたためギャップで悩んだと述べている。そして同著の中ではもう若いときのような毒舌は出来ないからテレビに出る時はおもしろいおじさん的な立場で出られればいいとも述べている。

「キタノ映画」

「キタノ映画」の特徴

「キタノ映画」のビジュアル面での最大の特徴は、「キタノブルー」と評される青の色使い。また、多くの作品で登場人物の「死」が描かれ、青みの深い画面のもたらすひんやりした映像感覚とあいまって、全編に静謐な不気味さを醸し出している。

こうした一貫したカラーを持つ一方で、撮影時のアングルや編集のリズム、自身の絵画の導入、CGによるエフェクトなど、一作ごとに新たなチャレンジや創意も感じさせる。映像に一層の格調高さを与えている久石譲の音楽(3作目以降)も「キタノ映画」には重要な存在である。

エピソード

2007年、第60回カンヌ国際映画祭に招待された際に、同じく映画祭に招待された松本人志が自身の初監督作品(『大日本人』)の試写上映の途中で席を立つ観客を見てショックを受けたことに対して、北野は「こんなことは当たり前だ。10年も映画監督をやればどうにかなる。他の監督より才能がある」と松本を励ましたという[11]。

なお、北野は生前の黒澤明と面識があり、北野は黒澤を大島渚と共に敬愛している。北野のベスト映画は『七人の侍』。また、東京スポーツ新聞社主催の「東京スポーツ映画大賞」では北野自らが賞を選定するが、北野は東スポ映画大賞の常連の受賞者でもある。

監督作品

* 『その男、凶暴につき』(1989年)
* 『3-4×10月』(さんたいよんえっくすじゅうがつ)(1990年)
* 『あの夏、いちばん静かな海。』(1991年)
* 『ソナチネ』(1993年)
* 『みんな~やってるか!』(1995年)
* 『キッズ・リターン』(1996年)
* 『HANA-BI』(1998年)
o ヴェネチア国際映画祭でグランプリ(金獅子賞)受賞作。
* 『菊次郎の夏』(1999年)
* 『BROTHER』(2001年)
* 『Dolls』(2002年)
* 『座頭市』(2003年)
o シッチェス・カタロニア国際映画祭グランプリ、ヴェネチア国際映画祭監督賞受賞。
* 『TAKESHIS'』(2005年)
* 『監督・ばんざい!』(2007年)

ビートたけし登場以後、TV業界へ与えた影響

MANZAIブームは、それまでドリフターズや萩本欽一などお笑いスターを中心に据えて存立していたバラエティ番組を大きく変えるきっかけになった。「オレたちひょうきん族」で茶の間に認知されたビートたけしは、その「ひょうきん族」自体では他の出演者への突っ込み役に徹することが多かったが、「お笑いサドンデス」「笑ってポン」等でそれまでの平和型のコントやギャグよりも、むしろ過激で無謀な方向性のギャグを志向した。そして1985年以降のバラエティ黄金期では一般視聴者(素人)を重要な役割で参加させる番組を提示し、それまでバラエティ番組は芸人主導のものとされていた常識を覆し、素人も主役に据えた。

価値観

数学に対して

大学が理系であった事からも分かるように、数学に対する造詣は深く、「もし道を間違えなかったら、数学の研究者になりたかった」とも語っている。また、かつて「ここがヘンだよ日本人」に出演した少女の、「数学なんか学んで何になる」という言葉に対し、「世の中の全ての現象は数学に支配されており、数学で説明できる」と語った一方で、「平成教育委員会」の算数の授業で、「数学は答えさえ合ってれば良い」と理系出身者とは思えない理由で、論拠が誤っている正解者を優等生に選出したこともあった。

環境問題に対して

1992年、『新潮45』の連載にて「『地球にやさしく』なんかできない」のタイトルで、当時の政財界やマスコミによる「エコロジーブーム」の欺瞞性および浅薄さを皮肉った[12]。この「『地球にやさしく』- 」は同年6月18日付けの朝日新聞に「ビ-トたけしと地球環境」と題した、環境問題への無関心を戒める社説が掲載されるなど反響を呼んだ。このことについてたけしは「芸人の言っていることをいちいち真面目に取り上げるな」などと当時の『新潮45』の連載および『世紀末毒談』で述べた。なお、この評論は1996年の山形大学教育学部の入学試験の小論文試験の出題にも使用された。

スポーツ

サッカー(Jリーグより以前の国内・海外選手に詳しい)や野球をこよなく好み、長嶋茂雄を敬愛している。草野球チームとしての『たけし軍団』では投手を務めることもある。野球をする時のたけしは真剣であり、川崎球場での番組収録中、グラウンドに男性アイドルが登場したため女性ファンの歓声により、試合どころではなくなってしまった。その際に誰よりも早く「ここはグラウンドで野球をやってるんだぞ!コンサートじゃねえんだ!」とスタッフを一喝した。

神宮外苑の軟式球場が一種のホームグラウンドで、最盛期は年間70試合近くも行い、1991年の阪神タイガース・ファン感謝デーで軟式ルールながら阪神に勝利した。作家・伊集院静が連載していたエッセイ『二日酔い主義』の中には、たけしと一緒にプレーをした記憶に触れる回が幾つかあり、『たけしのグローブ(伊集院静『あの子のカーネーション』文藝春秋、 1989年。)』では、たけしの使い込まれたグローブに強かな野球少年の面影を重ねて描かれている。本作で三原脩に準えられたそのユニフォーム姿は、イラストレーター・佐々木悟郎の手によって水彩画に仕立てられ『スポーツシャワー〜ヒーローに花束を〜』の中で使用されていたことがある。

格闘技ではボクシングを好み、自身もジムに通った経験を持つ。映画の中で人を殴るシーンや『座頭市』における逆手切りのフォームには影響が垣間見える。浅草時代を知る石倉三郎は「タケちゃんのケンカはボクシングスタイルで結構パンチも早かった」と述べている。なお、たけし自身は1963年の高山一夫 vs 勝又行雄戦、1971年の金沢和良 vs ルーベン・オリバレス戦をベストマッチに挙げている。その一方で、1987年のたけしプロレス軍団にまつわる騒動において苦い経験もした。また、空手で骨折し拳の一部が変形している。

一方で、鉄棒の逆上がりや跳び箱といった器械体操の類は不得意であり、跳び箱ができないことは後にたけしの出演番組内でもネタにされ、「たけしの跳び箱オリンピック」と題した苦手克服企画が1988年の年末に放送された。

タップダンス・ピアノ

漫才ブームが過ぎ、次代に生き残る為の材料を思索していた時期、たけしはテレビの更なるバラエティショー化が進むと予想し、「タップとピアノ位はやれないとみっともねえだろ」という発想が生まれた[13]。以降、たけし軍団でもタップ・楽器・太神楽(ジャグリング)が必修科目となった。太神楽は海老一染之助・染太郎を師匠として学んだが、染之助の技は花柳流名取であったことに由来すると知り、日本舞踊を習うようになった。

タップダンスに対する思い入れは深く、毎日練習を欠かさず行なう。映画「座頭市」の撮影では踊るシーンが無いのにも関わらず練習をしていた。海外に渡航する際ですらタップシューズを持参するという。

ピアノを弾くのはバイエル、ツェルニー、そしてソナチネ(練習曲から本格的な楽曲へ移る分岐点にあたる)までで、それ以上の域に到達する必要はないと言う。ピアノ奏者レベルまで目指すのは本末転倒で、タップもピアノも「真剣にやろうと思えばやれる」ところまで到達し、それ以降はいかにアレンジして見せるかを考えるのが芸人の仕事だと語った。

写真

写真を撮影するという行為についてたけしは、「究極の映画とは、10枚の写真だけで構成される映画であり、回ってるフィルムをピタッと止めたときに、2時間の映画の中の何十万というコマの中の任意の1コマが美しいのが理想だと思う。例えば女性のヌードを撮影するってのも、ただ裸の女が出てるだけではなく、ストーリーの中で女が脱いでいくというものであり、グラビアは映画の原型みたいなものだと思う」と述べている[14]。

家族・縁戚

父の叔母で実質の祖母である北野うし(1877年生)は明治時代に娘義太夫の花形であった。2人の兄と1人の姉がおり、次兄はタレントで明治大学教授、工学博士の北野大である。妻は元漫才師の北野幹子(旧姓・松田)、長男、長女の井子。レーシングドライバーの松田秀士は義弟である。 たけしが芸人を志したとき北野家の誰もが反対したが、長兄の妻(たけしにとっては義理の姉)だけは「武さんは必ず出世する」と断言したという。

事件・事故

フライデー襲撃事件

詳細はフライデー襲撃事件を参照

1986年12月9日に、たけし軍団とともにフライデー襲撃事件を起こし逮捕。懲役6ヶ月、執行猶予2年判決(東京地裁、確定)。当時のレギュラー番組天才・たけしの元気が出るテレビ!!や痛快なりゆき番組 風雲!たけし城、スーパーJOCKEYへの出演を半年間辞退した。なお、女子大生に暴行で告訴された記者は罰金10万円の判決を受けた。

1987年、映画監督・深作欣二は、謹慎中の身にあったたけしと京都において初対面。その印象を「非常に鋭い顔をしている。笑っていても目は笑わんし、顔立ちが独特だ。いろんな人間とシビアな闘争をしてきた男の顔だ」と語った。

バイク事故

1994年8月2日午前1時40分。東京都新宿区の都道で飲酒運転での原付バイク事故を起こし、入院生活などで半年間テレビへの出演が出来なかった。酒気帯び運転にて書類送検されたが起訴猶予。退院時、暫くは顔面の半分が麻痺した状態であった。リハビリにより回復したが、復帰当時は「頭にボルトが入っていて飛行機の金属探知機に引っかかる」「顔面麻痺が治らなかったら芸名を顔面マヒナスターズにします」と自らの怪我をネタにした。

テレビ朝日「やじうまワイド」で大島渚は「僕は彼の心情を想うと、友人として何も言う気にはなれない」とコメントした。

上記事故で生死の境を彷徨っていた時、たけしの夢の中に既に亡くなっていた逸見政孝が出てきたという。たけしは、「あれは、まだ俺が死んじゃいけない。って逸見さんが言いに来てくれたんだろうな」と、退院後のインタビューで答えた。

人物

人間は「振り子」であるとして、「思い切り悪いことのできる奴は思い切りいいこともできる、思い切りバカなことのできる奴は思い切り真面目なこともできる」とし、映画監督として評価を得た後もバラエティ番組に出演することにはそうした理由もあるとコメントした。

自称は「俺」「僕」「オイラ」。それぞれ場の雰囲気に合わせ使い分けている。「オイラ」は下町・職人言葉の位置づけで、自身が育った島根町が職人街だったことと関連するとしている。かつて足立区の広報誌から受けたインタビューでは「足立は東京の下町だね。その足立の下町が島根だというの。島根は下町の中の下町。足立の中の足立だって思うんだよね」とコメントした。

たけしの物真似をする際の動作として定番化している頻繁に首をひねる動作(ただし、たけし本人は1990年代以降はあまり見せなくなっている)は癖ではなく、ツービート時代に「トランポリンで飛び跳ねながら漫才をやってくれ」と頼まれ、稽古中に頭から落下してしまい頚椎を負傷したことによると、『週刊ポスト』の連載コラムで述べている。

評価

1981年、文芸評論家の鶴見俊輔は『広告批評』誌上における座談の中で、「ツービートはがきデカの位置に似ている」と評し、文芸評論家・高澤秀次はこの評を絶賛した。

1983年、吉本隆明は栗本慎一郎との対談集の中で、たけしの話芸を「自分を異化することによって自然の流れとしてしまう芸風」と評した[15]。この本は著名な知識人がお笑い芸人を真正面から評論したという点で各方面の反響を呼んだが、一方で的外れだという批判も大きかった[要出典](のちにたけしは栗本と対談。後日、作家の小林信彦に「ああいうインテリはお笑いがわかってないのが、よくわかりましたよ」と洩らしたという[要出典])。のちに吉本が「海燕」誌上で埴谷雄高と論争(1985年)になった際、たけしは『もっと阿呆になれ、吉本!』という文章を発表し「吉本さんは言い回しが難解」と指摘した。

色川武大は「才能は切れるが、それだけにいいところを一人占めしようとしすぎる」とし、榎本健一・藤山寛美・萩本欽一と並べて「自分の手足を切ってゆく」タイプの芸人に分類した(対極として、古川ロッパ・森繁久彌・タモリの名を挙げた)[16]。

一方で否定的な論評の一例としては1981年、ルポライター・鎌田慧が「ツービートの残酷ギャグはファシズムの兆し」と批判した[17]。またルポライター・吉岡忍は、ツービート(ビートたけし)をジョン・レノン射殺事件の犯人マーク・チャップマンに重ねて論じるほど忌諱していた(が、のちに吉岡はその認識を大きく変え、映画作品のルポルタージュを執筆するほど関心を寄せるようになった)。

それ以外にも辛淑玉、佐高信や諸井薫がたけしの軍団に対する態度を「権威主義的で弱い者いじめをしている」とそれぞれコラムなどで述べている。これら批判的な論評について、たけしは「冗談と本気の区別が付かない奴らがいる」と評している。

田中康夫は、たけしを自らと同じく「価値紊乱者」、すなわち既存の権威への挑戦者としつつも、1980年代中盤には『感覚の倫理学』および『ファディッデュ考現学』にて立川流への入門や軍団創設を「肩書きや権威など、精神的ブランドに依拠しており、日本の(当時たけしがなりたいと語っていた)レニー・ブルースになりそこねた」と評した。一方でたけしの過激な言動に隠された内面の繊細さもまた指摘し、フライデー襲撃事件の際にはフライデーの取材姿勢を批判し、たけしに擁護的な立場を取った[18]。その後田中はたけしとテレビ番組でたびたび共演するなど交流も持ったが、その後も「ドナルドダックのように嫌われることも厭わず本音で周囲に毒を吐く存在であったはずが、嫌われることを恐れ人気者であり続けようとミッキーマウスのように無難な優等生的発言しか行わなくなりつつある」といった意味の論評も『神なき国のガリバー』や『ニッポンご託宣』にて並行して行っている。またバイク事故直後にあえて顔面麻痺状態で会見に臨んだことに関しては評価したが、その後の本格復帰については「芸能界の一線からは退いた方が良かったのではないか、取り巻きや軍団を養うためだとすれば自活を促すべきだった」と評した。